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メタノイアの生き方:詳細版

f:id:seishonoarukurashi:20200503153018j:plain 皆さん、こんにちは。 釧路リバイバルキリスト教会 庭の家チャペルの牧師をしていますpastor mitsuruです。ぼくの書いたブログの中で「メタノイアの生き方」という検索率の高い記事があります。今日はその記事のダイジェスト版をアップすることにします。

メタノイアの意味の勘違い

キリスト教の宗教用語の一つに「悔い改め」という言葉があります。ところが、この「悔い改め」という言葉は誤訳だという人もいます。あまりいい訳ではなく、聞く人に誤解を与える訳だというのです。

どういうことなのでしょうか。 キリスト教で「悔い改め」というと、どういうわけか歯を食いしばって自戒するというイメージが強くあります。 難行苦行や、自分を責めるようなやり方です。 そして、そのあと少しでも悪いことを考えたりすると、おかしいなあと。「悔い改めが足りん!」となります。 ひいては断食したり、聖書をたくさん読むとか、朝何時に起きて祈りこむとか‥‥。 でも、長くは続かないでしょう。「お祈り」→「おい寝り」になってしまうのは時間の問題です。 聖書がいう悔い改めとは、そんなことを言っているんじゃないからです。

メタノイアの意味とは

では聖書の言語ギリシャでいうメタノイアとはどんな意味なんでしょうか。もともとの意味には「見方、洞察、理解、を変える」という意味があります。

「あなたは、信頼と、こどものような身なり態度でキリストのもとに来なければならない。単純で、助けを必要としている者として、信頼を持って、ありのままに、なんら見栄を張らずに、野心をもたないで。」「それは、罪のない悪いことをしない子ども、という意味ではなく、素朴な(ナイーブ)、気どらない、誰かに頼る、信頼するような、自分を偉いものであるかのように見せようとすることから自由になった(状態)」。ジョンマッカーサー

ここでマッカーサー牧師はメタノイア(悔い改め)の本来の意味に近いことを言っていると思います。

対人関係における適用

私たちは時々、自分のためにいい人間である振りをすることがあります。自分がよく思われたくて人に親切にすることがあります。 それはメタノイアではない生き方です。 仮面をかぶって自分じゃない自分を演じているようなものだからです。 しかし、ニネベの住民もシバの女王も、それとは逆に、自分の欠けに気が付き、またそのことを認めました。

新約聖書の「告白」との関係

そして、キリスト教用語のもうひとつに、「告白」というのがあります。「告白」は、自分がそんな、こんなもんでしかないことを「はい」と言って認めることを言います。はい、私はこんなもんです、と。ふてくさって投げやりでそういうのではありません。肩の力を抜いてそう言い表すことを聖書は「告白」と言っています。

そんな人間関係~あったらいいですね。

それはまた互いに自分の小ささを、弱さを、道徳的にも、熱心さにおいても、自分の無力さを、日々日々認めていくことでもあります。 それがまた、教会生活でもあるのです。 悔い改めと聞くと、私達はすぐに、歯を食いしばって~まだ悔い改めがたりん!!ってな具合に、今以上に精進して‥‥あれこれ励むことと考えがちなのですが、それは長続きしないし、悔い改めではないのです。

メタノイアの道の途中にあるものとして生きる。

それは豊かな人生を歩む鍵と言えそうです。