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「神の慈しみと厳しさ」

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おはようございます。

今日は、「神の慈しみと厳しさ」というタイトルでこの箇所からご一緒に学んでいきたいと思います。

ローマ11:16‐24*1

誇ってはいけない

今日の箇所は、一口で言うと、「誇ってはいけない」という事について書かれてあります。なぜ誇ってはいけないと書いてあるのでしょうか。

18節。あなたはその枝に対して誇ってはならない。

16節では「初穂」(新改訳では「初物」)とあって、18節と共に異邦人のキリスト教徒たちに対して、ユダヤ教を奉じるユダヤ人たちに向かって高ぶった思いを持ってはいけないということを言っているのです。

なぜかというと、もしユダヤ教徒たちがいなかったら、キリスト教も今日なかったかもしれないからです。キリスト教ユダヤ教を母体として生まれました。だから誇ってはいけないと言っているのです。

  20節から22節までを読んでみましょう。

この箇所は私たちにとってもたいへん重要なことについて書かれています。

心の貧しさ=自分を人前で誇って見せること

私たちは、心の内側で、とかくおごりやすく、誰かを見下す傾向があります。そうすることで自分の貧しさを隠そうとするからではないでしょうか。

18節。あなたはその枝に対して誇ってはならない。

  異邦人でクリスチャンになった人たちが、ユダヤ人たちを見た時、彼らはかつてイエスキリストを十字架につけて死なせ、さらには今なお福音をも拒んでいる。そんなユダヤ人たちを見下してはいけない。

なぜなら枝が生い茂るのは幹があって根があってのことなのだから同じようにキリスト者ユダヤ人たちを見下すべきではないと言っているのです。

たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。 」18節。

 今あなた方異邦人のキリスト者があるのはユダヤ人たちが居てくれたお陰だから高ぶらないように、と使徒パウロは彼らを諭して、注意を与えているわけです。あなた方が今あるのは、彼らのお陰ですと。彼らがいてくれてからこそ今のあなた方があるのですと。

わたしたちはどうでしょうか。

信じることとは

 今日の聖書の19節から22節までを読んでみましょう。

22節には「神の慈愛と峻厳さ」とありますが、平たく言えば、「信じたんだからいいじゃないか」と考えてしまわないようにということです。

つまり一度信じたんだから、もう絶対に救いから漏れることはないんだから、少しくらい悪いことをしてもいいんだという考え方をしてはならないというのです。実際、そういう考え方をする人は、本当には信じてはいない人です。

信じることとは自分の弱さを認めた人がすること

 信じるという事は、自分の弱さや至らなさをイヤというほど教えられて、そのことを認めて、では、だからこそ神の憐れみにすがろうとすることを言います。自分でまだやっていけると考えているのなら、それは信仰ではありません。信仰とは神のお力に頼りながらなんとか歩もうとすることです。

もし、救い(信仰を持つこと)が神の一方的な選びによるものであったとしても、信仰を持つ人は、いよいよ、自分のようなものを選んでくださった神の慈しみに感謝、賛美するように導かれていくだけです。

 あなたは信仰のゆえに立っているのである。20節。

ここに「信仰よって立って」いるとありますが、これは立っているんじゃなくて、「立たせていただいている」ということで、ほんとうは立てなかったのに、なんとかかんとか、やっとこさっとこ立っているという状態のことです。

やっと立っているという事は、周囲の助けがなければ立てないということで、そういう人は、同じようによろよろしている人を見て、馬鹿にしたり、見下したり、つらく当たったりすることはできないはずです。

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使徒パウロがここで書いている「神の慈愛と峻厳」とは、そういう意味です。

神の峻厳さ、厳しさに触れる時とは

 私たちが、見上げるべきこと、思い見るべきことは、神の慈しみと厳しさだというのは、もし私たちが、自分一人で立っているかのように考えて、思いあがるなら、切り落とされてしまう~つまり神さまの前から退けられて、信仰を失ってしまうということで、そのとき、人は神の峻厳さ、厳しさに直面するのです。

自分は大丈夫なのだろうか?

 じゃあ自分は大丈夫なんですか?自分の今の信仰で天国へ行けるのですか?と心配することがあると思いますが、もし自分は至らないものだという事がわかるなら、そして、神のお恵みでかろうじて立って歩かせていただいているのだという事が分かるなら、大丈夫なんだという事なんですね。そういう人は神の慈しみに留まりつつ歩もうとするからです。

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。第一コリント 10:12

そういうわけだから‥‥恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。ピリピ2:12

私たちの変えられるべき欠点‥‥そのとき教会がそこにある

 いろんな高慢が私たちにはそれぞれあります。大丈夫という慢心。自分の弱さと向き合おうとしない向こう見ずな性質があります。私たち人間というものは不正直なものではないでしょうか。

 しかし、もし、自分が、成長の遅い幼い人、弱い人、自分はとるに足らないものだという事を一日・一日・知っていくなら、自分などは、神の高い要求に間に合わないのではないかという怖れとおののきですね。自分の足りなさを日々日々自覚しながら歩むとき、弱さのゆえに私たちは祈りあい、励ましあい勝利も失敗も分かち合いつつ、隠さず、正面から自分に向き合うなら、主はよろけやすい者をも倒れないように支えて下さいます。そこに教会があります。

  どうぞ主の慈しみに留まり続けることが出来ますように。

主を恐れて歩めますように。お祈りをいたしましょう。

 

お祈りをいたします 

 私は罪と滅びの中にあった者であり、主のお助けなしにはどうすることもできない、立ち上がることのできなかった者であることを認め告白いたします。

慢心しやすくい、向こう見ずな、おごりやすさを認めます。

どうぞ聖霊様のお助けによって、私たちが今週もこれからもそんなもろい躓きやすいものであることを分からせて下さって、自己の力に信頼することなく、主の大いなるお力に頼りつつ進むことが出来ることをお願い致します。

どうぞ不信仰によって倒れた人がいますならもう一度立ち上がらせてください。また、どうぞ福音を拒むユダヤ人の方たちが、国家をあげて主を受け入れて救われますように。

 イエス様の御名によってアーメン。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:11:16もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。 11:17しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 11:18あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。 11:19すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。 11:20まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。 11:21もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。 11:22神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。 11:23しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。 11:24なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。