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ユダの裏切りから学ぶこと

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ユダの裏切りから私たちは学べることがあります。ユダの裏切りは、神があらかじめ予定していたことだったのでしょうか。少なく見てもユダの裏切りがなければ、サタンはイエスを十字架に追いやることもできなかったことになります。だからと言って、それがユダ個人の責任逃れの口実になるのかというとそうでもなさそうです。「貪ってはいけない」という道義的な面からみても、それは彼の責任となるものでした。

裏切り者のユダと私たちのこと

静かになってよく考えてみると、私たちも、ユダと同じように、いろんなあやまち~自分のしたくないことをやってしまったり、考えてしまったりするものではないでしょうか。 「私たちを超えた大きな存在」は、これからも私たちが、人を傷つけたり、言ってはいけないことを言ったりするような生き方をするのを黙って放っているのか。 神はなぜ私たちが失敗するのを、あやまちを犯すことを事前に止められなかったんだ~ということになります。そして自分みたいなものはいっそのこと生まれてこなければよかったということになってしまいます。そしてユダは自分で死にました。

エスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。ヨハネ 6:70

エスは早くからユダの正体を見抜いていたというのです!

にもかかかわらずどうしてイエスは黙っていたのか?

一般的にユダの裏切りについてはよく論議されますが、ほかの弟子たちのことについては、あまり触れる人はいないような気がするのですが‥‥。 エスを裏切ったのはユダだけじゃなかった。ペテロもヨハネも同じだった。イエスを見捨ててみんな逃げ去ったのです。 ここにメッセージがあります。

「悔い改め」るって?どういうことなのか?

ユダに対しても、ほかの弟子たちに対しても、イエスは、罪を思いとどまること。悔い改めるのを待っておられた、ということです。 悔い改める。いったい、どのようにしてか? 

また、イエスの弟子たちへの悔い改めへの期待はユダだけに向けられていたものではなかったということ。弟子たち一人一人への期待でもあったということです。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」「いや、そうだ。」(イエス)。このところは直訳、または古い訳では「なんじは言えり」となっています。塚本虎二という無教会派の先生の訳によると「いや、そうだ」のところは、「あなたかもしれない」になっているそうです。

それはだれかがそう決めつけることでもなく自分自身での判断にゆだねられているという意味です。 ペテロはそのあと、実際に信仰を捨てました。 ペテロがその時、学ぶべきだったことは、自分の弱さということでした。 ユダも自分の力の限界に目を遣(や)ることをしようとはしませんでした。

彼らは自分の弱さ、罪深さを直視しようとはしませんでした。保証もなく自分は大丈夫だと信じていたのです。

「それは自分かもしれない。」それは良心の声です。

私たちを超えた大きな存在である方は、いま聖書を通じて私たちにもそう語り掛けているのだと思います。「なんじは言えり。」「あなたがそう言った」。

神さま。どうぞ私をお助け下さい。 サタンが私たちの思いの中に入れてくる小さな悪への願いを、正面から向き合うことができる潔い心の態度を。私にも気づかせてください。 神さまは、私たちが自分の弱さを認めることを願われているのです。 

私のいのり

主よ、それは私の思いです。それは隠せません。 主よ、あなたは私の思いをよく知っておられます。 どうぞ、私をお助け下さい。