聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

古い人を脱いで新しい人を着る

先日のペンテコステ礼拝で、コロナにかかって以来続いていた体のだるさが取れました。

その日は忙しくて一日中走り回っていたのですが、夕刻になって気が付くと、全然疲れていないことに気づきました。

次の日も、次の日も、あれ以来ずうっとあの気だるさが消えました。

以前の体調に戻ることが出来ました。

今日も、ですからみなさんの上に良いことが必ず起こると信じます。

 

 

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。ローマ6章6節。

聖書は私たちの生まれながらの存在を古い人と呼んでいる

天のお父様は私達から、生来の古い人を直ぐには取り除かれません。

ですから私たちをこのどうしようもない自分を自分でなんとかしようとしないことが肝要です。

ちょうどこれは、古い飲んだくれの悪い友人が付きまとっているようなものなのです。

ですからイエス様を信じた人は、その古い存在を一度、他人と見なすべきです。

自己啓発とかありますが、聖書によれば、それは直せません。

永遠に無理です。

教会では、イエス様を信じた人が受ける洗礼があります。

それは一度水の中に入って、そこに古い自分を捨て置いて、自ら上がる時には、イエス様と共に新しい自分となって、よみがえりのいのちの中を歩む、そのことの象徴、それが洗礼です。

ある先生は、イエス様の十字架は、聖なる脱衣場だと言われました。

3:1このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 3:2あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。 3:3あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 3:4わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。3:5だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 3:6これらのことのために、神の怒りが下るのである。 3:7あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。 3:8しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。 3:9互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 3:10造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。新約聖書コロサイ3:1‐10.

聖書にはイエス様を信じた人は古い人を脱いで新しい人を着たと書いてあります。どこで脱いだのでしょうか。十字架という場所で脱ぎました。その十字架にはイエスキリスト様が十字架上ではり付けになられ、その瞬間信じる者たち私たちの古い存在を磔殺(たくさつ)して下さったのです。古代ローマには実に恐ろしい処刑方法の数々があったようです。

その中に、死んだ人の遺体を処刑人に括り付けて死ぬまで放置するというやり方があったと聞きます。しかし、そのむごい刑には聖書の教えが暗示されていて、いわば人はイエス様を信じて新生はしますが、死ぬまで古い存在を引きずっていかなければならないのだという事実です。面白いことに、十字架で処刑された人の死亡日は磔になったその日だといいます。しかし実際は、一週間もそこでジワジワと苦しみもがき続けてやがて息絶えるというのが普通だったと言います。それはイエス様を信じて義人とされた、救いを戴いた人の実際の姿を表しているのではないでしょうか。クリスチャンになっても、まだ悪いことを頭の中で考えていたり、次の日起きると否定的な感情の虜になりさがっていたりと目まぐるしく変わる自分に、「おかしいな、聖書では罪の赦しを戴いて、義とされたはずなのに‥‥」といぶかるのです。「自分はほんとうは古い人はまだ死んでいないのではないだろうか」となってしまうのです。

先日おいのりしているときのこと

すこし食を抜いて祈っていた時のことです。

朝起きてみると、大変、否定的な思いに絡まれていることに気づきました。おかしいな。こんなに祈っているのに‥‥と当然自分に対する疑いの念がわいてきました。

しかし、そのとき、同時にこうも考える自分がいました。

「信仰生活の勝利は自分の善行や努力によるものではなく、ただ、主の十字架の勝利により頼むことなのだ」。

そう考えたとき、平安になりました。

人間の優先順位

人間には生きる上での優先順位というものがあります。

Ⅰ 霊に生きる

Ⅱ 魂に生きる

Ⅲ 肉体に生きる

これがもし逆だと良いことにはならないことが起こります。

聖書には「はじめに神が天と地を創造された」あるからです。

そしてそのとき、神の霊が水の上を動いていたとも書かれてあります。

つまり創世当時、肉眼には見る事のできない霊がまず活動していたことから、まず生きる最優先が霊に置かれる必要があるということなのです。

また、神は霊なので、礼拝をささげる人は霊とまことによって造り主なるお方を礼拝すべきだともイエス様が仰ったとおりです。

人の知的な部分(魂)では、また肉体の部分で何かを感じただとかは、それ自体では何事においても真に解決はないのです。

ということは、クリスチャンが祈る時~まず霊(人の本質)の部分が活かされるのだということを覚える必要があります。

そして、その時、突然のように聖書の言葉の意味が理解できるようになりだして、突然のように創造主なるお方を賛美、礼拝し始めるようになるのです。

名古屋のY先生のお話

先日名古屋のY先生があるお話を分かち合ってくださいました。

それは先生がある集いに出掛けたときに聞いたあるお証しです。

ある伝道者の方がいました。

その人は熱心に多くの働きをし、たくさんの教会を開拓しました。

しかし、ある日その方は体を壊して天に召されかけました。

そのときのこと、イエス様と天で出会って喜びの中、きっとイエス様は自分がしてきた数々の働きについて称賛してくれるものと、今か今かと待っていたのですが、イエス様はなにかまるで無視するかのように、一言もお褒めの言葉をその先生にかけて下さらなかったというのです。

先生は悲しくなりました。

するとイエス様はその方にこう言われたそうです。

「あなたは、地上にいたときに、どれほど私と交わることを大切にしてきましたか?」と。

そのお話を聞きながら、私は、イエス様のことを考えました。

あのシロアムの池で主イエスは何人の病人を癒されただろうか?

その時その時、そこには大勢の病人が臥せっていたというのに、主がお癒しになったのはたった一人だけだったではないか。

それは、イエス様はいつも聖霊さまと交わっておられ、天のお父様の御心だけを行うことに人生の重きを置いておられたからなのだ、と。

人を喜ばせたり楽しませたりするのではなく、御心を行うことに余裕をもって、確信ををもって力をもって働かれたのだ、と。

人生の優先順位は、どれほど大きなことをしただとか、だれよりも優れたミニストリーをしただとか、そんなことよりも、どのように聖霊様とつながっていたのか、どれくらい聖霊さまと交わって、係わりを持ってきたのか、ということではないか!

自分の功績ではなくて

聖書は私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられたと言っています。古い人は、善行や学んできた知識や自分の徳や、どれほど自分が潔くなれただとか、何をなし遂げたのかだとか、そういうことにこだわります。しかし、祈りをもって聖霊様と交わりながら聖霊さまは私を「自分が~自分が~」ではなく、イエス様が私のためにして下さったことに目を向けさせてくださるお方なのだということを覚えたいと思います。

 

聖書は私たちの古い人は十字架につけられたと宣言しています。

古い人を脱ぎ捨てて、日々、聖なる十字架のもとに行きましょう。

そこで、日々古い人を脱ぎ捨てて新しい人、イエス様を着て、前進しましょう。

皆さんの心悩ます諸問題は何ですか?

何年も何年も昔、札幌にチョーヨンギ先生が来られて「十字架の写真機」というメッセージをされました。

カメラじゃなく写真機ですから時代を感じさせるタイトルですが、そこには新しい者しか映っていないと先生は話されていたと記憶します。

 

ハレルヤ!主をさんびしましょう。

 

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