聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「忍耐と励ましの神」

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今回は、ローマ書から引き続いて、「忍耐と励ましの神」というテーマでみ言葉を学びましょう。

ローマ15章1~7節*1

使徒パウロが言う「信仰の強い人」、「弱い人」というテーマが14章から続いています。今回も同じような意味で1節に、「力ある人」と「力のない人」とあります。

私たちが持っているものや知っていることは、お互いの役に立つために神さまから与えられています。ですから自分だけのためではなく、だれかのために使っていくとき、とても有意義な時を持つことができます。

「力ある人は力ない人の弱さを担うべき」とありますが、そんな意味でもあるのではないでしょうか。

自分にとって不満に思える人

私たちはみながイエスキリスト様の十字架の贖いを通して、多くの罪咎を赦していただきました。そのことを考えてみましょう。もしも、そうであるのなら、私は自分に「負い目」のある人をどういう目で見るべきなのだろか。

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エスの弟子ペテロは、数年、マスター(主)と一緒に行動して、ええっ!と思うような振る舞いや、姿勢に何度も接したことと思います。かつて、イエス様から自分がどう接していただいたかということを思うとき、主がよくして下さったことを考えるとき、自分のような人間に忍耐をもってよくもここまで待ってくださった!そのことがわかれば、自分もまた、多少腹が立つような人がいても、待ってあげられないはずはない、ということですね。

相手を不快にさせるリアクション

私などはすぐに人を裁きやすくあります。ええっ!?そんなこともしらないの!と言ってしまいやすいところがあります。「『母に捧げるバラード♪』知っている?」→「ええっ!そんなこともしらないの?」と、 どうやら私のリアクションが相手を小馬鹿にしているような印象を与えるらしいです。気を付けようと思います。

優しい目をした牧師さん

聖書学校時代のこと、上級生が授業でちょっとキツイ質問を講師の牧師さんにぶつけました。するとその牧師は優しい目で、じっとその方を見つめて答えてくれた~「羊のような優しい目やった」~しみじみと授業の終わったあと、そう感慨深げに話してくれたことがありました。

主は、自分のようなものに忍耐してくれているし、様々な人間関係など神様が下さった数々の親切を考えるなら、この先どうやって私たちは生きていけばいいでしょうか。

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先日、親子が遊んでいるのを目にしました。でも、少し残念な会話が聞こえてきました、、、親が子供をなじるようなことを言ってました。

自分は果たしてどうだっただろうかと反省しました。

同じようなことをしてきたかもしれない。

こんどは、べつの若いお父さんとご近所で立ち話しした時、その方が話すには「時間があればできるだけ一緒に遊んでやりたいと思っている」と。このお父さんはスゴイと思いました。自分などは与えられた多くの時間をどうやって使ってきただろうか。自分を喜ばすためだけに使ってきたのではないだろうか。そして、そうやって知らず知らずに相手を傷つけてきたのではないだろうか、と。感謝すべきだったのに、感謝もしないで、当然のことのように、不平や愚痴だけを言ってきたかもしれない。

それなのに、主はそんな私をずっと忍耐してくださっている。弟子のペテロがイエス様と過ごした数年で、多分ペテロもそんなことを考えていたのではないだろうかと思うのです。

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今、祈りましょう!

若い二人の牧師さんがたが確かバイクに乗って伝道に出かけた時だったと思います。道の途中で、スーパーカブだったかが故障して動けなくなりました。まだ若かった片方の牧師がくさって「チェッ」みたいなことを言ったらしいのです。ところがそのとき、もう一人の牧師が「今、祈りましょう。きっと神さまがこのことを通して何か教えて下さっているのかもしれませんから」。その姿勢にまだ若かったもうひとりの牧師は頭を殴られたような気がしたといいます。また自分が恥ずかしくも思えたのだそうです。

ワーカホリックだったソロモン王

旧約聖書に出てくる優れた王さまでソロモンという人がいました。しかし結局、彼はワーカホリックでした。仕事中毒者で、せっかく頭もよくていろんなことを知っていたのにもかかわらず、あまり聖書を読んでいなかったようです。もし読んでいたなら、多分しなかっただろうと思えるような残念な結果が旧約聖書のサムエル記という書の中に書かれてあります。

キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 3節。

主は私たちのためにみ苦しみを甘んじて下さったとあります。イエス様は、ありもしない咎でご自分を十字架にかけ、悪口雑言を浴びせる人たちのために祈られました。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからないでやっているのです」と。

4節を読みましょう。

これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

神である主はこんな私たちを今も忍耐してくださっている。

そして、こんな私にもエールを送ってくれて、誰もエールなんか送りそうもないような人にも頑張れ!と言って、もうちょっとだ、ガンバレーと言って励ましてくださっておられる神さまだというのです。

たとえ少しでもいいからイエス様のようになりたい

どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 5節

ああ、イエス様。少しだけでもいいですから、あなたに似たものになりたい。私は十字架につくような愛や忍耐、それに寛容な心はない。でも、あの人に対して、あの人が考えていることに、少しだけでもわかってあげられれば、また少しだけでも、助けになることができれば。主よ、私をそんなものに変えてください。たとえ見返りがなくても、そうでありたい。

15:6こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。15:7こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。

世界は今も主を拒んでいます。しかし主は今も忍耐と励ましをもって世界に臨んでおられるのです。それは、私たちに良い羊飼いなるイエス様を下さった恵の神様のお名前がほめたたえられるためです。教会を通して主の御名があがめられますように。アーメン。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:

15:1わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 15:2わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。 15:3キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 15:4これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。 15:5どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 15:6こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
15:7こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。