聖書のある暮らし

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渇望現象と強迫観念から自由になるために「イエスに生きる生き方」

2020.6.28.sun. 新約聖書ローマ人への手紙6章5節~11節*1

 皆さん。こんにちは。

庭の家チャペルの牧師 伊藤です。

今日は、上記の箇所から「イエスに生きる生き方」というテーマでご一緒に聖書のことばに思いを向けてみましょう。

 

「イエスに生きる」。それはどのような生活のことなのでしょうか。

 

 

渇望現象と強迫観念から自由にされる毎日が与えられる

今日の箇所は、私たちがイエス様と死んだ者であるということ、またイエス様と一緒によみがえった者であるということについて書かれています。

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 5節。「もしわたしたちが、彼(イエス)に結びついてその死の様にひとしくなるなら」。この箇所は新改訳聖書訳ですと、下線部のところが「接ぎ合わされて」と訳されています。これは、ローマ 11:17の接ぎ木の例え話からきているようです。 

「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら」ローマ 11:17

枝を切って、別の幹に差し込んで、やがて新しい品種が作られます。もともとのギリシャ語の「接ぎ合わされて」というのは、「共に育つ」という意味もあるそうです。誰かの真似をして、影響を受けて、ということではなくて、「オリーブの根の豊かな養分をともにうけている」というので、「必然」ということですね。そうならざるを得ない結果と言えます。

 

 6節には「知っている」、8節の終わりには「信じます」、9節にも「知っている」とあります。

これらは論より証拠!その事実について認めなさいということを言っているのです。

 また、6節には「罪のからだ」とありますが、これは私たちの「生活全般」のことをいっています。

枝が接ぎ木されるように、キリストに根差すなら、必ずそこから豊かな養分が流れ始めて、イエス様を受け入れた人の生活が変わるのだと言っているのです。

 

自分の問題行動はなに?

 

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言いたいことを言ってスッキリするはずのところが、逆に落ち込みがひどかったり、強迫観念的に、またおなじことをしてしまうのではないか?という恐れの心。自分でもコントロールしがたいのが「自分」ではないでしょうか。

でも、そのようなか今までは悪いごちそうのようなものを食べては、具合が悪くなるようなことを繰りかえす生き方には、うんざりしている‥‥。

夜更かしをやめたくてもやめることが出来なかったり、むしろ本当はイヤな生き方、過ごし方だとわかっているのに、それらを渇望するようなところさえある。

 そして、聖書は、「知りなさい」、その事実に気づきなさい、といっているのです。そういった渇望と強迫観念の毎日から、自由になれるという事です。

 

では、いかにしてその実践が可能なのか? 

 それは具体的にいってどのように私たちの生活に起こるのでしょうか。どうすれば、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、今すぐに、イエス様にあってそのような、さわやかな、新しい命を楽しむ人生~永遠の命に生き方に再出発することができるのでしょうか。

6節の「私たちの内の古い人」*2のところですが、ここはある神学者の説明によると、主語「私たち」が複数形であるのに「古い人」は単数扱いで、普通そういう書き方はしないそうです。「私たち」であれば「私たちの古い人たち」となるそうです。でもここでは、更に冠詞までついて、私たちの「あの古い人」となっているのです。

なので、ここで言う「古い人」と言うのは、私たち個人の経験、体験、事柄と言うよりは、むしろ定冠詞がついているため「あのアダム」~のことを言っているのです。

主観は差しはさめない客観的出来事

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以前お話しした例話で、会社に就職する時その会社の取り決めに否応なしに組み込まれるというのがありました。いったん会社に入ってしまえば、その会社がどこの銀行とどこの会計事務所と取引しているかなどというようなことまでは関知しないし、しなくてもいいと言えば良い問題ですね。おおざっぱな意味で、すでに契約関係に入っているのですから。

古い人の扱いは、「かのアダム」の問題であって、そこにも主観的なリアクションは私たちの側には必要はありません。そのような事柄はきわめて客観的な世界のことで、経営者たちにお任せ済みのように、父なる神さまと御子なるイエス様の贖いのみ業;十字架の償いと贖いの死と復活といった救いのために用意された出来事に、信仰者の側としては、いっさいをお任せするしかないことを言っているのです。

そこにはなんら、私たちの感情論が入る余地はありません。

 

そして、次の8,9,10節は復活のキリストに接ぎ木された生き方について書かれていて、「知りなさい」つまりその事実に気づきなさい、と言っています。

さっきも触れましたけど、10に「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」

このことも、パウロ流にたとえて言うと、あたらしい命の木なるキリストのご生涯に起きた十字架と復活の出来事の世界のことであって、先週もありましたように、その出来事は私たちの預かり知らないところで起こった出来事だったんですね。

ですから、今日のこのキリストの古い人を処理なさったことも、よみがえられたことについても、その時私たちは影も形まだなかったし、その主のなさった救いの再創造の御業には何の関与も私たちはしていなかったんです。主のなさった救いの御業に私たちは指一本、与(くみ)することはしていない、ということでした。

 

完成されていた救いのための手続き

次の箇所には、主の贖いの御業が完全無欠だったことが書かれてあります。

7:27彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。

ヘブル 7:27

この「一度だけ」というのは何度もする必要のない、完全無欠な贖罪の業という意味ですね。

罪に対して死にたいとか死のうと決心するという事ではないのです。榊原康夫

それでも奇蹟を求めますか?

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ときおり、自分でも思うようにならない自分に、奇跡が起こって瞬間的にこのトンデモないワタクシめをなんとかしてください!即座にきよめて下さいと、断食をし、長い時間かけて祈ったし、聖書の研究にも打ち込んだ。でも、変わらなかった。奇蹟は起こらなかったんですね。

どうすればいいのでしょうか。

毎日、面倒でも、キリストにあって、そのご生涯に与ったものとして、自分は罪に死に、甦りの命に生きていくことについては、どうしても自分の生まれながらの力や努力ではどうにもならないものなのだ、という事を「知らなければ」ならないのです。

 

罪と義の課題*3についてはシロウトだということを認める

 これまでご一緒に考えてきましたように、私たちというものは、罪の性質と義:理想の自分になることについて、扱うには全くの門外漢というか無力な者でしかないことを認めることが大切と思います。

なぜならば、この聖書が与える救いのメッセージは、このように私たちがあずかり知らない世界で起こった出来事に基づいているので、私たちは次のように祈るしかないからです。

もし、正直に無力を認めて次のように祈るなら、私たちがどんなにガンバってもできなかったことを、自分を超えた大きな存在は、私たちのために、果たしてくださいます。

「神さま。私は、罪の問題と義のことについてはまったくの素人です。力の及ばないものです。しかし、一人のお方イエスキリスト様によってその御業のゆえに、自分の無力さを認め、甦りのお力に御頼りいたします。どうぞ私の歩みを日々、お助け下さい。アーメン。」

 

*1:6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

*2:6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

*3:宗教的な意味で神の前に正しいものとされる、教会用語で「きよめられる」ともいいます。またそれはセルフコントロール不能に陥っている自己の強迫的な観念、悪習慣についての渇望とも関係します