「叫び求める祈り」
今回は叫び求め祈りの大切さについて分かち合いたいと思います。
信仰生活の過程
ローマ書の4~5章にかけて、私たちの救いということについて書かれています。
5:1です。
5:1このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
続く6章は、信仰生活の実際が書かれてあります。
6:11~14節です。*1
そこには主に捧げるすばらしく幸福な「献身の生涯」について書いてあります。
なのに、7章に入ると、突然、様子が変わってきます。
あれほどうれしく、幸福だった信仰生活の歩みはどこへいってしまったのでしょう?
これは現実で、罪との戦い、自分の肉の性質*2との戦いが待っていたのです。
それはまた、それらの背後に暗躍する悪霊どもとの戦いであり、さらには悪霊どもが実行支配している今の現生、世との戦いでもあります。
7:15節からの所をお読みください。
7:15わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。ローマ7:15-24.
いかがでしょう。
この個所をいくら読んでも、何か解決のつかない釈然としないものがあることを感じることと思います。
最後の25節に及んでは、ほとんどあきらめかけたような、割り切ったままで終わっているようですらあります。
7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
これでは何の解決もくれない哲学のようです。
哲学とは、これはこうですよと当たり前のことを言っているようなものです。
ではどうすればいいのかということについては沈黙したままです。
イエス様は仰いました。
「人の内側から出てくるもの、それが人を汚す」のだと。
つまり私たち人間は、どんなに頑張ってみても、生まれながらにして罪びととして生まれたのだということなのです。
まず自分が罪びとなのだということが分かったので、ローマ書3章のところで、イエス様を救い主として信じました。
ところが、その後の、輝かしい日々がおくれるとの期待に反して、すべてがどうもうまくいかない。逆に、自分の醜さに苦しむ。罪の誘いや悪魔の惑わしに勝利することが出来ない。
自分は本当に救われているんだろうか?となってしまうのです。
自然界の癒す力には限界がある
先日のこと、少し頭を冷やしたくて、春採湖までドライブしてきました。
いい天気に恵まれて、この地方では温かな14度を越える散歩日和でした。
お客さんたちも多く訪れていて、ここは、あのシマエナガや、エゾリスもいたり、バードウォッチの愛好家たちの素敵な場所です。
アバ創造主なる天のお父様は私たち人間を霊・肉・魂の三構造でお造りになりました。
ですからこういった自然に触れると心洗われる思いがして良いですね。自然は第二の聖書だと言った人がいます。
しかし、大自然の治癒力にも限界があるのです。
自然浴では間に合わない人間の一番奥深い部分の存在である「霊」にまでは、届く力がありません。
人間の存在の本質の部分での解決は、ただ存在の一番奥深い部分である霊においてでなければ真の解決や、信仰生活上のあらゆる悩みに対処することはできません。
なぜなら、天の父(聖霊、御子)は霊であられ、私たちの本質もまた霊であるからです。
イエス様はこのことについて実例をもって私たちに教えて下さっているところがあります。
9:25イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 9:26すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 9:27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。 9:28家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 9:29すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。マルコ9:25~29
29節のところには、ほんとうは「断食」も含まれているようです。
つまり、断食をも伴うほどの集中した祈りのことを言っています。
何日断食しただとか、何時間祈っただとか、もし時間稼ぎのような自己満足のような祈りに効果はありません。むしろ逆に、そんなことだと悪い結果に陥ることすらあります。
そうではなく、主の前に真剣に出て祈る祈りのことを言っているのです。
そうするとしばしば、そこに時間や断食といったものが、おのずと伴うのです。
イエス様は、この悪霊に憑かれた少年が解放されるには、唯々祈りによらなければ、他の何によっても解決しないと仰いました。
つまり、それは霊が肉の部分を、さらには悪霊でさえをも支配して、諸々の問題の解決を決めることができるのだ教えているのです!
そして、ここまで来たときに、私たちは初めてローマ書8:1の語っている意味が分かり始めます!
8:1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 8:2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 8:3律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 8:4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 8:5なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 8:6肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 8:7なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 8:8また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 8:9しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 8:10もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 8:11もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。ローマ8:1‐11.
実際の力となって、私たちの内に働かれるのは、真に信じるものである私たち一人ひとりの内にあって、助けて下さる聖霊様のお力によるものだからです。
それを観念的に学んでも、神学的に学んでも、どんなにみ言葉を知識として頭の中に蓄えても、聖霊様のお力が私たちの心の内側に臨んでくださらない限り、それは絵に描いたぼた餅のようなものでしかないからです。
罪に打ち勝つ力はないし、偽善的な信仰生活に堕してしまうし、奉仕の力もありません。
天のお父様が私たちに願っておられる夢やビジョンを理解して従うこともできないのです。
しかし、もしひとたびクリスチャンがこのことに目覚めて祈りだすとき、何が起こるでしょう。
血と油が注がれる
10:22心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。へブル10:22
Ⅰ.「こころはすすがれ」。
これは、イエスの潔めの贖いの御血が信じるお一人ひとりの胸に注がれるイエス様の血潮のことを言っています。
祈る時、イエス様の御血が祈る人の心と頭に注がれるのです。
「すべてのものは血によって清められる」とあります。
イエス様の贖いの、潔めの御血が注がれるとき、わたしたちは如何なる束縛するものからも自由にされるのです。アーメン!
ですからどうか、日々、イエス様の御血を叫んで、呼び求めて祈りましょう。
主よ!イエス様の血潮を私の頭に降り注いで下さい、と。
イエス様の御血でどのような悪い考えや、態度からも私を洗い清めて下さいと祈りましょう。
自分の心の中を祈りの中で吟味して、清められることを呼び求めるとともに、そのような悪から離れるようにしなければなりません。
心配事や、おそれの感情であったり、また汚れた感情であったり、いろいろな私たちを惑わすものがありますが、それらは、さきほどのイエス様のミニストリー、悪霊を追い出した少年の時のように、これらの惑わすものは霊だからなのです。
霊の勢力には、霊の力でなければ、解決することは絶対にできないからです。
Ⅱ.油注がれる
そしてまた、どうぞ聖霊様の油の注ぎを求めて祈って下さい。
昔、旧約聖書では、血をぬってその上に油を塗るという個所があります。
主は、私たちにとって良い羊飼いです。
良い羊飼いは、日々、害虫が悪さをしないように見守って、頭に油を塗ってくれるそうです。
それが羊飼いの仕事だそうです。
そうしないと害虫が来て、耳の中や鼻の中に卵を産み付けてしまうそうです。
人の世話がないと生きていけない羊は、そのままにしておくと、鼻のあいだに産み付けられた害虫の卵のために自分ではどうすることもできなくなって、岩に自分の頭を打ち付けて死んでしまうそうです。ですから良い羊飼いは、一匹一匹の羊の頭の上に油を良く刷り込んでくれるそうです。
ですから、良い羊飼いなるイエス様に叫び求めましょう。
頭を差し出して遜って、どうか私の頭に聖霊さまの油を塗って下さい、油を注いで下さいと。
勝利ある信仰生活の実現がここにある
もはや絵に描いたぼた餅信仰はなくなります。
このようにていけば、必ず天のお父様は、お約束通り、ローマ書八章に書かれてある約束、「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」また「11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」とある通りに、そのみ言葉を実現して下さり、皆さんを勝利の信仰生活へといざなってくださいます。ハレルヤ、信じて感謝します。!
信じて祈りましょう。
今日から祈り始めましょう。
悪魔は何としてでも祈りを奪おうとして妨害してきますから、負けないでください。勝利の信仰生活はお一人ひとりの皆さんのものです。アーメン。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。