ローマ8:12-17*1
庭の家チャペルの牧師、伊藤と申します。
今日は、「永遠の資産」というテーマからこの箇所を読みたいと思います。
まずそのまえに、前回にもあった聖書が言う「肉」とはなんのことでしょう。
Ⅰ.肉とは何か。
「肉」とはからだのことではない
13節に「体の行い」とあります。生活をして行く上で食欲、性欲などの欲求が関係してきます。ですので聖書が語る「肉」をイコール=からだのことだと思いがちですが、聖書は私たちのからだが悪だとかは一切言っていません。
むしろ逆にローマ12章では、からだを義の器として、武器(良いことの為に使う道具)として捧げよとあるくらいです。
たとえば小説の塩狩峠の主人公が自分のからだを使って暴走する列車を止めて乗客の命を救いました。これはちょっとすごいですね。
肉に歩むとき、生きるエネルギーを失くす
家でテレビを見たりゆっくりすることは良くても、毎日がそれだけだと面白くありません。時間は短くても誰かの為に陰で祈ってあげたり、聖書のトラクト(パンフレット)をどこかに置いておいたり。自分のからだと時間を有効に使いたいという願いが信仰者にはあります。
逆に、肉に歩むという事は、自分だけの為に大切な時間を費やして終わってしまうことでもありますし、それだけだとつまらない毎日です。
肉の定義
からだも心もふくめて生まれながらのもろく弱い人間のことで、誘惑にたびたび負けている性質全体のこと。
先日、あるお店の前でフラワーポットに水をやっている方がいました。お花が好きで自分で買っきて職場の店頭に並べているそうです。たぶん、充実感がおありでしょう。お花は良いですね。(^▽^)/
クリスチャンは永遠のことのために時間とか関心を費やして執成し祈ったり、一枚のトラクトを渡したり、素晴らしいことです。毎日を忙しく過ごすあまり、日曜日が来ると、にわかに急いで支度してなんとか礼拝に出ようとする。余った時間でではなく、祈り心をもって優先順位を決めて毎週を過ごしてみるのはどうでしょうか。
永遠の相続人について
17節に相続人とありますが、これについてはとんで32節に、「万物」(口語訳)を相続するとなっていて、かの内村鑑三氏によると万物とはやがて更新されることになっている被造物、全宇宙のことだといいます。
クリスチャンはやがて復活して、新しい主と同じからだを戴いて、主と共に果てしない宇宙を治めていくようになるのだというのです。だから小さなことで満足していてはいけないというのです。
小さな親切ですら、やがて全宇宙の王として支配していくための永遠に照らして理解していくものでありたいと願わされます。
Ⅱ・肉に歩む責任は御霊に負っていただく
12節で「肉に従って歩む責任は肉に負わない」というので、責任の所在は霊にあるということです。それも大文字の「霊」=Spirit。聖霊のことを指します。神の第三位格、聖霊(聖霊は神格です)に責任を負っていただいて肉の行いを自制して、御霊に導かれていく日々を送るという事なので、そのような生き方=クリスチャンライフは、禁欲ではありません。
たとえばダイエットで失敗するとリバウンドします。同じように、自分の力で正しく歩もうとするなら必ず失敗して、たとえば怒りが爆発するとかになってしまいます。だから聖書がいう肉の責任の後始末や扱いというものは自分には無理だと早く認めることが大切ですね。
じゃだれがその責任を負うのかというと、聖霊さまです。
神さま。
わたしにお与え下さい。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。
変えられるものは、変えていく勇気を。
そして二つのものを見分ける賢さを。
平安の祈り ラインホルト・二ーバー
そのように自分を超えた存在に放棄していくときに、新しい歩みへの変化が始まることでしょう。
15節に「奴隷の霊」とあります。
奴隷の霊とは、なにかに隷属している精神状態や生き方のことです。
たとえば、自分はまた失敗するのではないだろうか、してはいけないことをしてしまわないだろうか、と心配する強迫的な思いがあります。
このような思考が聖書でいう「肉」とも言えないでしょうか。
なぜなら、そのように思考しているときは自分の力で正しくなろうとしているからです。「変えられないものを受け入れる落ち着き」は、神さまが下さいます。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マルコ2:17
たましいの医者であられるイエス様が必要とするのはそういった病人:自分で変えられないものを受け入れた人なんですね。
たましいの名医であられるイエス様に「もう自分では治せません。」そう言って自分で出来ると思っていたことが問題だったことを認めて、当然とそれまで考えていた権利を放棄することではないでしょうか。
プライドや緊張やあくせくすることを、手放して、あとは自分に出来ることをしていけばいいのです。
14節。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
クリスチャンとはそのように御霊に導かれて歩めるように定められているのです。神さまは必ず責任をもって御霊を戴いたお一人一人の歩みをそのように全うさせてくださいます。
困難中での神の子どもとしての祈り
酒乱の父母を持つとなかなか「お父さん」「お母さん」と呼べないものです。でも、17節にあるように、今、困難を経験していても、なにかの病気であっても、永遠のいのちの資産という立場から問題の渦中にあって、神の子として、「お父さん」と親しく神の御名を呼び求めて祈る力があたえられます。イエス様ではなくて、イエス様を通して父なる神に祈るのです。
重い永遠の資産のゆえに、お父さんといって、小さな出来事の数々に希望をもって祈りましょう。
ある男の体験
若いころから働き者で、ビジネスで成功した人が重い病気にかかりました。彼は少しの間、死んで、臨死体験を通して永遠の世界の重大さに目覚めました。その後、頭から否定していたあのキリスト教のいやしの集会に、なぜか行くことを考え出し、車を走らせ、出かけました。
そのような行動は、男にとって、あり得ないことだったのですが、彼の親族にクリスチャンがいて、病で苦しむ彼のために熱心に祈っていたようです。彼は集会で聖霊の力に触れられ、奇蹟が起きて、完全な癒しを受けたそうです。その後、彼は世界中を回って、癒しの体験と死後の世界があることと、そのための備えが必要であることを語り終えて、50代という若さではありましたが、天に帰っていったそうです。
お祈り
天の神様
私は罪びとです
イエス様が十字架にかかり死んで三日目に甦られたことを信じます
私を救い、新しい永遠の命をお与下さい
イエス様のお名前によって アーメン
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