聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

その方がこられると 

三位一体の第三位格であられる聖霊さまが来られる時、私たちと大事な真理へと導いて下さいます。

Ⅰ永遠のいのちへの救いという真理へ導いて下さる

「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」ローマ10:13

先日、体調を崩してしばらく臥せっていたのですが、その間、感謝におもえることがありました。

読みたくても普段 読めなかった本をいくつかゆっくりと体を休めながら読むことが出来ました。

感謝だったことは、そのうちの一つ「永遠に生きる喜び」という向後昇太郎先生という方の書いた本を読んで、あらためて、自分がイエス様を信じて罪の赦しを戴いて、永遠のいのちをいただけたことです。

もし、自分が死ぬようなことがあっても、自分がどこへ行くのか?この絶対的な命題に私は解決を受けていることです。

まだの方はぜひ、このブログの最後に救いの受け方についての説明があるので、その内容をご覧の上、救いに至るお祈りをされて下さい。

あるお姉さんの死

先日、親しくしているご高齢の牧師さんのお姉さんがお亡くなりになりました。お若いころ、末期の白血病を患い、余命幾ばくという窮地に、イエス様を信じて奇蹟的な癒しを受けられ、その後、本当にお元気にすごされていたそのお姉さん。でも、元気になると、教会に来なくなってしまいました。そのことがあってから20年ほど経ったのでしょうか、最後のときがやってきました。病院に見舞った牧師でもあるその方は、「お姉さん、わかるでしょ。ただイエス様!って言ってね」そう今わの際のお姉さんに枕もとで話しかけたそうです。その日の夜、お姉さんは召されました。

その二月ほど前、まだ意識のあるとき見舞ったときは聖書のお話を聞いても、上の空だったのだそうです。

でも、召されるその日、枕もとで「イエス様~って言うんだよ」ともう一度、最後の最後に話してあげることが出来たのです。

私はそのお話を聞いて、「お姉さんは天国へ聖書の約束通りに行ったのではないでしょうか」とお話しました。

エス様といっしょに十字架にかけられた重罪人がいました。意識がもうろうとしていくその最中に、その重罪人にはもう信仰について勉強する時間はありませんでした。また彼は、中央にかけられたイエスを神の子と認め、救いを懇願しました。ただただイエス様~と叫んだことでしょう。

主の御名を呼ぶものはだれでも皆救われます。

Ⅱ.聖霊が来られると御心にかなう教会へと導いて下さる

使徒の働き二章に書かれてある教会への回帰~

クリスチャンが祈る時、聖霊さまは御心にかなうことを示し、導いて下さいます。

先日、ひさしぶりに遠方にお住いのTさんを訪ねて出かけてきました。

わたしはそこで、予期しない貴重なお話を伺うことになりました。聖霊さまが私に語って下さったかのようでした。

そのTさんはお茶の先生でもあったことを初めて知ったのですが、Tさんにお茶を指導されたそのお師匠さんは、御自分の弟子たち一人ひとりをお茶の先生に育て上げるというコンセプトというか、モットーを持ってられた方で、その方から習う生徒はすべからくお茶の先生となるということでした。

Tさんはかつて40年以上前、伊藤弘子先生から救いに至る信仰へと導かれ、その後もいろんなところを通ってこられた方ですが、その間、お仕事を通じて知り合った方に信仰を伝えて、その方は内地(本州のこと)に戻られてからも教会へ通うようになり、その後、その方のお母様も信仰に導かれ、今は豊かな人生の実を結ぶに至っています。またTさんはお体を悪くしたとき、入院先の病院の先生に聖書を渡したのがきっかけで、その医師はその後信仰を持つに至ったのです。

弟子が弟子を生むと言いますが、事情があって毎週教会には通えないTさんですが、こうして年に数回でもお会いして、共に祈りあって、信仰が今も育まれていることに、私は今回、使徒の働きの二章の教会、つまり家の教会、ある人はそれをマイクロチャーチとも呼びますが、名称はどうあれ、大切なことをお聞きできたと、深い感銘を受けつつ帰宅しました。

2:42そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
2:43みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 2:44信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 2:45資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 2:46そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 2:47神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
使徒行伝2:42-47

このペンテコステ聖霊降臨記念日に、この上記の聖書の個所を読むと、当時の初代教会の大半は、家々でその主な活動が持たれていたのではないだろうか、そんな印象を受けるのです。

そうです。そうに違いありません。

家と単数形で書かれている個所は、「家々」が本当の訳ですね。

先日ですが、教会の方のお知り合いの方のお宅を訪ねて行ってみました。

もうかなりご年配の方でしたが、お元気な方です。

お昼前の時間帯のことでしたが、きちんと身なりを整えたその方は、玄関口まで出て来てくださって、丁寧に応対して下さいました。

家があって、軒先があって。

家があってそこにお住まいの方がいる。

天のお父様は一軒一軒の家々に関心をお持ちだと信じます。

ぜひ、また出かけて、永遠の救いいいたる単純な真理を伝えてきたいと願っているところです。

 

いのちがいのちを生み出します。

弟子が弟子を造っていくのです。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。