聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「主の血潮の力により頼む」

今日はご一緒にイエス様の血潮の力について学びましょう。

私たち救いに導いて下さったイエスの十字架の御血には、いったいどのようなお力があるのでしょうか。

キリストを信じる信仰には、キリスト様の熱い血が流れています。

主キリスト・イエスは最後の晩餐の夜、ご自分がその直後に流される御血を「契約の血」と呼ばれました。マタイ26:28.

一般的に契約は、一度交わされると簡単には解消することができません。

エス様は、信じる者をその十字架の上で流された御血によって、悪魔の支配下から買い取って下さり、滅びの淵から贖い出してくださったのです。

ですから、信じる者の生活は、その血の契約の確かさにのゆえに、天の父なる神によって日々守られているのです。

それは、御血によって神との確かな契約関係に与っているからです。

人は、生きていくには必ず、衣・食・住が必要です。

神は、信じる者にそれら一切をも、そして、死後のいのち・永遠の命・住むべき家をも備えて下さるのです。

それは、唯々、わたしたちのいかなる努力・実績によるものではなく、父なる神さま、御子なるイエス様、そして聖霊さまの三位一体のお働きによる恵なのです。

Ⅰ.罪の赦し

主イエスキリストの十字架の御血による第一の祝福はなんでしょうか。それは、罪の赦しです。

すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、ローマ 3:23

ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。ローマ 5:12

最初の人間、アダムとエバ以来、人類には罪が入りこみ、その罪のために死が全人類に支配するようになりました。

死は、罪の呵責や、精神的苦悩、ひいては病気、人間関係のあらゆる苦痛をもたらしました。

しかし、2000年前イエスキリストが十字架上で流された贖いの血潮は、私たちをすべての罪から洗い清めて下さり、私たちの罪や咎、病気やすべての呪いを負って下さいました。ですから信じる者には罪の苦悩からの救いが与えられ、聖潔と永遠の命が与えられるのです。

Ⅱ.義人とされる

二つ目は、イエスキリストの十字架の御血は私たちを神の前に義人としての立場をお与えくださいました。

わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているローマ 5:9

今から三千年以上前の時代のこと、イスラエル人がエジプトを脱出する晩でした。家々の門柱と鴨居に血が塗られたのです。

理由は、その晩、死の使いがやってくるからでした。

死の使いは戸口に血塗られた家を通し越して、禍が遠ざかっていきました。

しかし、血で塗られてなかった家々では、家畜をはじめ人の初子・長男に至るまでその晩、命が取り去られたのです。

血は何のために塗られたのでしょう。

まず第一に、それは、家の中の人たちのためではなく、主権者なる神がご覧になるためでした。主権者なる神の裁きを逃れるためでした。

人の心には扉があります。

エスキリストを信じ受け入れた人は、いわば心の戸口にイエスの贖いの血が塗られたものなのです。

それは信じる人の善行とか、信仰深さなどの人のした功績にはよらないで、ただイエスキリストの贖いの御血を受け入れたかどうか、そのことにかかっているからです。

換言すれば、イエスの血は神が私たちを御前に義なる者と定める偉大な神が下さった恵なのです!

言葉に気をつけましょう

私たちは日ごろ、とかく否定的な考え方や言葉を発しやすくあります。ダメだ~、どうせ~、病気になる~、上手くいかない。

しかし神様の前に義人として認められたのですから、言葉遣いをも直していかねばなりません。肯定的、希望と将来に係ることを口にしましょう。 

Ⅲ.エスの血は信じる者を罪の誘いから守ります

あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、第一ペテロ 1:18

闇の支配者サタンは生きています。

サタンは、人の肉・世を通じて、この世を支配しています。

巷を歩くとき、ややもすると、反キリスト的な文化・習慣・考え方に流されてしまい、知らない間に祈りの霊を失い、思考が落ち目になりがちです。

ある先生は、一日一回でいいから聖書を開きなさいと教えているそうです。

一行読めば二行読めるからだそうです。

ちいろば先生は、一日五分の聖書通読、五分のお祈り、そして五分の瞑想または黙想が、人生を変えるのだと言ったそうです。

この五分の瞑想というのがいいですね。心の中であれこれ、み言葉にまつわる事どもを関連付けて考えてみる。そして静かに祈ってみる。これが瞑想で黙想です。

そこには、イエスの贖いの血の力が流れています。

どうぞ、イエスの血が万能のワクチンのように私たちの胸に注がれて、悪い考え方や・悪習慣から信じるお一人ひとりを、またその家族のために祈ることによって、解き放ち、自由にして下さるようにお祈り下さい。

「われらに罪をおかすものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をも赦したまえ!アーメン」

Ⅳ.エスの血は和解の血、平和の血です 

ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。エペソ 2:13

「近い者とされた」と書かれてあります。これは神と人との距離のことです。

エス様の血を毎日賛美して、信頼して祈るなら、主の御血は私たちをいつでも神に近い者としてくださいます。

なんとなく祈れない。神から遠く離れているような気がするときは、どうぞこのみ言葉の意味を考えましょう。御血によって「近く」されているのだと!

また、その力は人間関係や自然環境にも働きかけてくれる御力です。

先日の墓前礼拝も好天に恵まれました。

前日までの雨がウソのようでした。

私はこれが神様の恵みによるものだったと考えています。

また、人間関係でも適用できます。

悪霊からくる攻撃もあり得ます。

そんなときには、「イエスの血!」と相手に聞こえないくらいの声でいいので、言ってみましょう。悪霊からくる怒りや、憤りや、騒動というものがあります。

Ⅴ.イエスの血は祈る力を与えます

新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。ブル 12:24

新改訳聖書では「血に近づいています」と訳されています。

アベルの血は復讐の血です。

復讐を嘆願する血の叫びです。

家族の中では断絶があり、人間関係の挑みあい、憎しみは消えません。

しかし、イエスの血は、贖いの血です。

十字架を伝って、赦しと贖いの血が大地に注がれました。

その血は赦しであり・愛・和合、一致です。

エスの贖いの完全な血は、信じる者を神に近づけて下さるのです。

Ⅵ.イエスの血は信じる者に生きる力を与えます

エスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。ヨハネ 6:53

御血は信じる者に、生命力を与えます。

ある本を読んでいた時、世界で初めてスーパーマーケットの手法は、ペンテコステ派の一組の夫婦から生まれたと書いていあるのを読んだことがあります。

祈りの中でその手法を教えられたということでした。

もし、私たちが、霊で祈るなら、異言で祈る時、聖霊様に導かれて祈る中で、新しいアプローチや、伝道先や、創造的な出来事の中に進んでいくことでしょう。

この神は、無いものをあるもののようにお呼びになるお方なのです。

Ⅶ.イエスの血は勝利の血です

兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。黙示録 12:11

お互いに、怒りや、高慢な思い、せっかちだったり、強情だったり、性格上の欠点が私達にはあります。

しかし血を流し祈られたイエス様の御姿を、十字架の御姿を考えてみるときに、イエス様の謙遜と従順を思わないわけにはいきません。

そのような黙想は、私たちを導いて、私たちの中にややもすると振り回す肉・世・サタンの誘いに、私たちを遜らせ、主と共に十字架を負っていこうとする祈りと願いが熱く篤く湧いてくるのです。

わたしたちは、そのようにして、私たちを振り回す一つ一つの古い考え方に、聖霊様のお力をもって、打ち勝つことができるようにお助け下さるのです。

エスの血をたたえてお祈りいたしましょう。

 

 

f:id:seishonoarukurashi:20201216122008j:plain

 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。