聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「永遠の復活の希望」

教会ではイエスキリスト様の復活を毎年お祝いします。

それは復活祭、イースターです。

それはイエスキリストが死からよみがえられた記念の日だからです。

主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。ローマ 4:25

ヨハネ11:17‐26*1 

最も大切なもの~希望

世界には、あまた数多くの偉人たちがいましたが、死んで復活したと言われているのはイエスキリストただお一人です。

ですからキリスト教を一口で言うと、それは希望の信仰。復活の信仰です。

私たちの心に希望があるなら、どんな問題も乗り越えていくことが出来ます。

逆に、希望を失えば私たちは生きていくことが出来なくなるのです。

聖書は、信じることと、望みを失わないことと、愛することの大切さを説いています。

13:12わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 13:13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。第一コリント 13:12,13.

死んで天国へ行けば、そこでイエス様とお会いできるので、もう信仰は必要なくなります。また、希望の実態であるイエス様がそこにおられるのですから、希望ももう必要なくなります。

残るものは、ただ神が私たちを愛されたという事実です。これが永遠に続くのです。

ですから、神が愛のゆえに私たちに与えて下さる最も大切なことは、信仰、そして希望を胸に頂くことです!

ある牧師さんのお話にこんなのがありました。

家族の誇り・期待の青年が医学部をでて、これからというときに自ら命を絶ってしまいました。ごく平和で幸せだった家庭は暗転して、母親は新興宗教に走り、父親は仕事が出来なくなってしまいました

しかし人生の逆転劇はそのあと起こりました。

死んだ兄の弟とお母さんは教会へ通うようになり、あれほど重傷だったお母さんの心の病は消えてしまったのです。

その様子を目にした弟息子は、教会には確かに何かがあると考えるようになり、その後彼は世界を股にしていたビジネスを辞めて、献身して牧師になりました。 

マリヤとマルタの絶望

福音書のマリヤとマルタという姉妹がいて、二人は兄のラザロを失うという場面があります。

ふたりの姉妹は奇蹟を行い病人を癒すイエス様に早く来てくださいと何度もお願いしました。しかし、エス様はなぜだか、すぐには行きません。

そうこうしている間に、ラザロは死にました。

ふたりがイエスになぜもっと早く来てくれなかったのかと、せまるくだりが21節です。

その理由は、このときイエス様は信じる人に、癒しを越えるもっと大事なことがあることを教えるためでした。

それは希望です

先日、拉致被害者横田早紀江さんの近況を知るある牧師のお話をYouTubeで聞くことができました。

この拉致被害の問題くらい、むごい話はないと思います。

いまも北朝鮮は誠意ある回答をすることはありません。

横田さんはすでに旦那さんを亡くされて、ご自身ももうだいぶお年を召され、拉致問題の解決に焦りすらお持ちだと思います。

しかし、先の横田さんと懇意にされている牧師先生のお話によると横田さんは、毎日、喜んで過ごされているとのことでした。

どうして横田さんは、喜んでいられるのでしょうか。

いつ解決するかもしれない問題の中であっても、クリスチャンとしての救いの喜びの中に、たとえ悲しいことがあっても、喜びをもって日々過ごしているのです。

sukiyakiの歌

あのなぜかアメリカでスキヤキというタイトルで売りに出された名曲、「上を向いて歩こう坂本九さんの誰もが知っているような歌が、実は、一説によるとあるクリスチャンの方が作られた歌?というお話しを聞きました。

上を向いて歩こう。涙がこぼれないように。」

ほんとうかどうかは別として、 

エスキリストの天の父なる神様は、信じる人に希望を与えて下さるお方です。アーメン。(アーメンとは本当ですという意味です)

どうして横田さんは喜んでいられるのかなと考えてみました。

これは信仰者として、推測することですが、娘さんを確かに失い、また失ったままですが、横田さんはきっとまた天国で最愛の娘と再会できるという希望を持っておられるからだと思います。

北朝鮮では言論は統制されて信仰を持つことはできない国です。

唯一拝めるのは、金日成金正日の像だけです。

ですから横田さんの娘さんのめぐみさんは、福音を聞くことはできない中にありますが、天地の創り主なる神様は哀れみ深い方です。

たとえこの世をイエス様のことを知らないで死んでも、あの世において、もう一度そのような方には救いのチャンスが与えられると期待するのです。

横田さんがどうして喜んで毎日を過ごせるのか。

それは、もう一度、天において、失われた家族と再会できるという確かな望みを抱いているからに違いありません。

天国へ行った姉

私の姉は、まだ25歳という若さで、しかも医療ミスが原因でこの世を去りました。当時のことを振り返ってみても、大変な大変な事件でした。

私の両親は深く悲しんでいました。残された三人で囲んだ棺と霊安室の冷たさ暗さを覚えています。

しかしこれはクリスチャンでなければわからないことなのですが、そんな深い悲しみの中でも、確かに心の中には不思議な希望があったのです。

姉は熱心なクリスチャンであった母の割には、反抗的な性格で、やりたいことはどんどんやっていくタイプでした。

まだ中高生の頃からニーチェとかヘルマンヘッセとか読み漁って、教会にも行きませんでした。ファシズムにあこがれてヒトラーの心酔者でした。

そして18の時には上京して好きなことをしていたのです。

ところが、転機が訪れたのは結婚のあとでした。

望んでいたような毎日ではなく、信じられない関係と挫折の中で精神的に参ってしまった姉は、鬱になりました。

ところが、母はその姉を連れて当時東京の四谷にあった韓国系の教会に連れて行ったのです。そこは、まだ洗礼を受けていなくても、こころに信仰さえ持てば聖餐式に与れる教会で、姉はそこで生まれて初めての聖餐式、パンとぶどう酒に与ったのです。

はじめての聖餐式

式で配られるパンのかけらはイエスキリスト様が私たちの罪の赦しのために身代わりとなって十字架にお付きになったとき裂かれたお体の象徴。太いくぎを打たれて手足は裂けたのです。

またぶどう酒はイエスキリスト様がその時流された全人類の罪の贖罪、永遠の滅びからの贖いの代価として流された聖い血の象徴なのです。

ですから、このイエス様の十字架のみ苦しみは、私の罪のためであったということを心から信じて認めて、罪を悔いて、受け入れるなら、その人は神の子となって永遠の命を受けることが出来るのです。

姉はそこで涙を流して自分のために主イエス様が十字架にお付きになったことを生まれて初めて感謝して、感動して、涙を流して悔い改めてそのパンとぶどう酒に与ったのです。

破天荒だった姉はその時から変わりました。

私はいつもいつも姉からいじめられていたので姉が大キライでした。

しかし、姉が変わったのです。

ほんとうに優しいずうっとその昔のおねえちゃんのような、お姉ちゃんが戻ってきたのです!私は既にクリスチャンではありましたが、本当に驚きでした。主よ、不信仰な私をおゆるし下さい。

態度はあまり変わりませんが、おい!って感じで気遣ってくれたり、お菓子を分けて呉れたりとかして、えー?と思っていたんです。

私はそんな姉と和解することが出来ました。

その一年後でした、突然姉がお医者さんのミスで、この世を去ったのです。

生きているとどうして?というようなことは、たくさんありますね。

天国へ行ってみなければわからないことは多いんですね。

ただ、一つ、天の父なる神様は、信じる者に、信仰と希望と愛を注いで下さるという事実です。

愛をもって、信仰を与え、そして希望を聖霊様によってお与えくださるのです。

このマリヤとマルタに25節「私は甦りです。いのちです。私を信じる人は死んでも生きるのです。」とイエス様は二人に約束されました。

残念ながら姉は早くこの世を去りましたが、私には姉とまた天にて再会できるという希望があるのです。

これはクリスチャンでなければ持つことのできない希望です。

では、最後にどのようにすれば、天の父なる神様から、私たちはそんな希望をいただくことができるのでしょうか。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ 3:16

 

この万物をお造りになった天の父なる神様には、たった一人の子どもがいました。

それがイエスキリスト様でした。

神はその一人子を私たちと同じ、罪深い人間の姿かたちでこの世にお遣わしになり、およそ30年間この世を人としてイエスキリストは歩まれ、そして自ら御自分の命を世の罪からの、信じる私たち一人ひとりを救うため、みずから十字架にお付きになったのです。

それは次のこの聖書の約束が実現するためでした。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと
イザヤ書 53:4

今は世の終わりの時代です。ロシアがウクライナに侵攻し、やがて今度はイスラエルに侵攻するときが来ます。それが聖書が古くから預言しているほんとうに終末の出来事です。

それが今起ころうとています。LGBT問題や食糧難や感染症や、自然災害、戦争や社会秩序の崩壊。これらは世界のベストセラーである聖書が古くから預言している出来事なのです。

権威は侮られ、男が女の服を着る時代です。

歴史的にもそういう国は間もなく消え去りました。

そして世界はいま、地球規模でおわりに向かっているのです。

しかし、天地が滅びても滅びない神の言葉、聖書によって、その約束に従って、私たちは新しい天と新しい地が来るのを待ち望みます。

そしてイエスキリストの十字架によって、その復活の力によって、病は癒され、問題は解決し、悪霊は追い出され、信じる人の心に希望が与えられるのです。

 

なぜなら一人子すら惜しまないで、天地の創り主なるお方は、一人ひとりを愛をもって導こうとして下さっているからなのです。

どうぞ、イエス様を心の内にお迎えして、永遠の希望を内に持って勝利の人生を最後まで歩んでいきましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:11:17さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。 11:18ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった。 11:19大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。 11:20マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。 11:21マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。 11:22しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。 11:23エスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。 11:24マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。 11:25エスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 11:26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。