「肉か御霊か」
今日は「肉か御霊か」というテーマで、ご一緒に少しの時間、聖書のみ言葉に目とめていきましょう。
Ⅰ.肉か御霊か。
今日の聖書の箇所のキーフレーズは「肉」と「御霊」です。
難しそうに思えるところですが、一口で言うと、御霊によって歩むのかどうか、という事だと思います
肉の考えとは何か
5節の「考える」とうギリシャ語には「重んじる」という意味があります。
分かりやすい例があります。
16:23イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」マタイ 16:23
ここで出てくる「思っている」という言葉が同じ「重んじる」という意味で、5節の「もっぱら考える」とは、そういった考え方の方を重んじるといういみになりますね。ちょうどペテロが神のお考えよりも、人のことを優先して考えた~「重んじた」わけです。
では、肉の思いとはなんでしょうか。
「もっぱら考える」とあるように、またそれはどこに重きを置くかということで、ペテロが人間に重きを置いたように、私たちが自分自身の内側に聖く歩む力があるかどうか、そのことに重きを置いて、あれこれ心配し始めるなら、そのときすでに肉の考えの中にあるのです。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とある通りに、うまくいかなくなるのです。どんなに宗教的に道徳的にそれはそれで、そのとき立派に見えてもそれは肉になります。
霊の思いとは何か
二つの考え
新約聖書のガラテヤ書を開くと、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り‥‥ねたみ、酩酊、遊興‥‥」とあります。ガラテヤ5章18~23 もう一つのパターンは
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、自制」と書かれていて、これらが御霊の実(果実)だと言っています。
聖霊さまは、重きを生来の自己の力において、解決を図り続けている間は、私たちをお助けすることはありません。
しかし、私たちが自分をはるかに超越した方の力にウェイトを置き換えて~つまり、自己の内にあるはずの解決策を探すのをやめて、大きな存在に(それは聖霊だと思います)いかんとも致し方ない自分を手放すときに、新しいことが起こり始めます。
変化に時間差はある
瞬間的に変わる人もいるのかもしれませんが、普通は、徐々に変化は起こり始めます。
決して禁欲してそうなるのではなく、ごく自然にそれは生じ始めます。ローマ書12:2にある「心の一新」(新改訳)とはそのことを言っているのではないでしょうか。
戒律的なこともないし、人付き合いの悪い人になる必要もありません。ことさらに宗教的になることもありません。
Ⅱ.変化が生じる根拠・理由
9節10節を見てみましょう。
御霊が内にあって、御霊の内に私たちがある(9節)。
一体どっちなのか?御霊が内にあるし、逆に私が御霊にあるという。私たちに御霊がおられるので私たちは御霊に歩むことができるということを教えているだと思います。その根拠が、次の10節にあります。
「御霊は義のゆえにいのちであられる。」
“The Spirit is life for you.”ザ・スピリット・イズ・ライフ・フォ・ユー。(グッドニューズバイブル訳)
聖霊はあなたのいのちであられる。
ある訳で「霊が義のゆえに生きている」とありますが、「御霊は義のゆえにいのちであられる」が正しい訳だという方もおられます。支えて下さる神のお力が、聖霊が信じる人のうちに働きだして、生かされていくのですから、「霊(私たち)」と「御霊」は明確に違いますが、御霊によって活かされるという意味ではけっきょく同じことを言っていると思います。
私たちの功績によってではなく、イエス様の十字架の贖いのご功績(義)によって、そうして生活上の変化は与えられていて、御霊のいのちのなかに主を受け入れた人は、どんなに小さく見えても、新しい歩みが始まっているのです。11節にも改めてそう書かれていますね。
「御霊による思い」はいのちと平安の理由は、それが自分でどうにかするものではなく、聖霊によって活かされた歩みに歩き始めた結果だからです。そして、多少の戦いや混乱や迷いはありますが、そのような平安な思いの中を「ひたすら」歩き続けていく、思い続けていく生活がそこにあります。
それはただ肉に重きを置くのを意識的にやめることによってです
自分自身にどのような救いの根拠となるものを探すのをやめることによって、またそのように考えることを日ごとに意識的にやめることによって。
そしてそれはただ、主の十字架の義の根拠ゆえに、御霊はいのちとなられていることに思いを至らせることによるものです。
お祈りします
天の父なる神さま
果てしなく自分の力に頼っては転び続けるという歩みを繰り返してきました。
イエス様の義があることをもう一度、思い見ます。
どのような助けの根拠を自分の内に探そうとしてきた努力を手放します。
日々、そうします。
贖い主イエス様の義をほめたたえます。
御霊の思いの中を歩ませてください。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン
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