聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「三重の祝福」

聖書には、魂に幸いを得ているように、あらゆる面で幸いを得、健やかであるようにと書かれてあります。

今回は、ご一緒に聖書の中から、三重の祝福について学びましょう。

先日、ある方がお亡くなりになって、葬儀のために出掛けてきました。

Kさんといって、以前お世話になった先輩牧師の義姉にあたる方でした。

葬儀では、参加者全員がノンクリスチャンの方ばかりで、翌日の出棺式の時、聖書を開いてお話したのが、先週お話した「福音について」でした。

①霊魂の救い②聖霊充満③癒し④物質的な祝福⑤再臨と永遠の命について、ざっとお話しました。

驚きだったのが、大概、葬儀ではこれまで天国地獄に絞って話してきたのですが、癒しについても、祝福の福音についても、終末のことについても、現実的な事柄をも網羅して話す聖書からのメッセージに、参列者の皆さんが、非常な関心をもって聞いておられたことでした。

今回の体験から、私は、教会は、福音の伝え方を変えるべきだということを学びました。

あと何年、何ヶ月、携挙まで、私たちはこの地上にいるのか、わかりませんが、時が短いからこそ、教会は福音をもっと立体的に伝えなければいけないと思いました。

福音から具体的なメッセージをする

前回は、福音とはなにかについて五つの教理を分かち合いました。

①霊魂の救い②聖霊充満③癒し④物質的な祝福⑤再臨と永遠の福音です。

そしてそこからより具体的に導かれる福音のアプローチが三重の祝福です。

Ⅰ.霊魂が生き返る祝福

2:1さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、 2:2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。エペソ 2:1,2

エス様を信じることが出来ないのは、悪霊の働きによる妨害が原因。

アルゼンチンのリバイバルで、アナコンディア先生は、冒頭、大声で執拗に不信仰の悪霊どもを縛る祈りをまずします。

あまりの激しさのゆえに、その場にうごめいていた様々な霊どもが、いたたまれなくなって、ある人は叫び声をあげ、ある人は痙攣しだし、あるものはその場に倒れてしまうのです。

そのあとから、師がイエスキリストの福音を語ると、人々は波にように前に走ってきて、回心し、イエスキリストを救い主としてその場で信じ受け入れます。

この現象が示すことは

アダムとエバ以来、人は霊的に死んで生まれてくるということです。

これは恐るべきことです。

エス様のことを聞いても何の感動もない。教会に来ても平然としている。それは、霊的に死んでいるからわからないのです。

しかし、妨げるものが取り払われて、その後、聖霊さまが来られると、イエス様を信じることがいったいどれほど素晴らしいことだったのかが、はっきりとわかってきて、涙ながらに人は神様の愛に感動して、回心するのです。

これは、すべてイエス様の御血の贖いのお働きによることです。

ですから、新生するやいなや、その人は祈ったり聖書を読んだり、教会に行くのが楽しくなるのです。

信じたあとの訓練

しかし、信じた後、人は霊と魂で構成されている存在なので、従来の魂の領域に刻まれてきた古い価値観であったり、世の慣わしであったり、世を支配するサタンの惑わしなどがあって、新生した内なる霊によってあゆむことに困難を覚えることがあります。

その原因は、新生した内なる霊がみことばと聖霊さまのお導きと力によって魂の古い生き方にも勝って、人生を人本主義から神本主義へと変化していかなければならないからなのです。

聖書を読めば、そのような訓練を受けた人がたくさん登場してきます。

アブラハムヤコブ、ヨセフ、モーセ

彼らは環境を通して、あるときは誤解され、あるときは逆境に遭い、鍛錬されて、次第に人本主義者ではなく、神本位主義者、献身の器へと整えられ、成長していきます。その様が描かれているのが聖書でもあります。

私たち信じる者も、どうか、祈りによって永遠不変のみことばによって、魂が訓練され、変化させられ、整えられて、実を結ぶ器へと成長させていただこうではありませんか。

Ⅱ.あらゆることに祝される生き方

旧約聖書申命記28:1-14.には、神が私たち人間に給わる多くの生活上の祝福についてのお約束がたくさん認(したた)められています。

エス様を信じた人が、必要なものすべてについて事欠くことは天の父なる神さまの御心ではありません。聖書の神はご自分の子どもたちがあらゆる点で豊かになって生活することを望まれている神なのです。

その理由は、かつて私たちの救い主イエス様が、私たちのためにこの地上にお下りになり、私たちが貧しくならないために、貧困と言う呪いを負って下さって貧しくなられたからなのです。

3:13キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 3:14それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。ガラテヤ 3:13,14.

このお約束によれば、信じる者はイエス様の十字架の血によって、貧しさから解放されているということがうたわれているのです。

つまり、さきほどの申命記28章には、あらゆる祝福が約束されていましたが、永遠不変の律法という神の御心に従って、イエス様を信じ受け入れる人には、必要なものが必ず備えられるという祝福に与っているものとされているです。

ですから、私たちの心の中から劣等感や、貧困意識や、失敗者という貧しい乏しい寂しい意識を追い出しましょう。

信じる私たちはあらゆる面で、ぜいたくのためではなく、必要とするすべてのものに満たされて歩めるように招かれている福音の祝福に与っていることを信じて、感謝をささげ、生ける神をほめたたえようではありませんか。アーメン!

それはルカ伝の兄弟のようです

ルカ伝15章には、兄と弟息子の二人の父親観が述べられています。

弟は、父の財産を使い果たして(もちろんそれは悪いことですが)帰ってきました。その間のお兄さんは、善人であっても我慢、ただマジメの人でした。

もちろんそれは良いことですが、あとで何と言って呟いては文句を言ったかと言うと、「親父からは子ヤギ一匹もらって楽しめと言われたことがない」でした。兄の父親像は、ケチで冷たくて、ただ清く正しくつましく歩むことこそが、信仰者の生き方!と決めつけていた生き方によるものでした。

イライラしやすかったし、表情にも乏しいものがあって、あらゆることに小さく小さく考える傾向があったのだと思います。これは、神様からの祝福の一面しか強調しないできた間違った信仰観の姿を表わすものです。

一方弟息子の父親観は、自分が信じる父親は豊かなお父さんというものでした。だからこそ、彼はやり直そうと考えることが出来たし、信じて、期待して、戻ったのです。

父親は、ボロボロの息子に一番いい服を着せてあげたし、指輪もはめさせ(それは相続人としての再出発を意味していました)、立派な靴も履かせてくれたのです。それからおいしい食事を準備して、お腹いっぱい食べさせてくれました。

私たちも父なる神さまへの神観を変える必要があります。

天のお父様は私たちにとって良いお方だという信仰です。

「約束の御霊を受けるため」とあります。

先には御子をくださった。そして今度は聖霊様です。

ある方は、もう神さまは私たちに下さるものがないほど下さったと言いました。 

ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 ローマ 8:32

Ⅲ.いやしと健康の祝福

聖書によれば、病はどこから来たのでしょうか。

15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。第一コリント 15:56,57.

聖書は、アダムとエバ以来、人類に罪が入り込み、それから死が世界を支配するようになりました。人が死ぬのはたいていは病気によります。

そして、その根本の罪の問題は、律法を拠り所にしているという原理です。

そして、その律法=聖書を開くと、そこにはあらゆる病気のことが書かれてあります。

申命記の28章60節には、「あらゆる病」(新改訳)とあります。

ある聖書学者の方のお話によると、そこに書かれてある病気の数々が現代の病気にどれほど符合するかはわからないが、すくなくも当時の世界で恐れられていた病気のすべてがそこに書かれてあるはずだとのことです。

イスラエル人たちは、3500年前のその当時、その寄留していたエジプト人たちの間に、あらゆる忌まわしく恐ろしい病の姿を目にしたのでしょう。

しかしその後、聖書は何と語っているでしょうか。

「木にかけられたものは呪われたものである。」

53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。イザヤ書 53:4
,5.

エスキリスト様はこの世に人としておいで下さって、あらゆる古今東西の人類のすべての不義と病を時間も空間も超えてその身に負って下さったのです。

ですからイエス様を信じた人は、もう病を負わなくてもよいのです。

主がその病を背負って十字架に呪われたものとなってくださり、信じる者の病を取り除いてくださいました。ハレルヤ!

ですから主を信じる方は、今負っている苦しみを病をすべてイエス様の十字架の上に、置いてください。委ねて下さい。主はいま、信じる人の病をいやされます。アーメン!  

今回は三重の祝福について学びました。

霊魂の新生・すべてに恵まれる人生・健康です。

この聖書の神は豊かな神様です。

どうぞ、希望と夢を持って進もうではありませんか。

 

 

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