聖書のある暮らし

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「イエスキリストの復活とは何か」

今日は主の復活を祝うイースター礼拝です。

こころより主の甦りを賛美し、感謝して礼拝いたします。

今日のみことばは、まず携挙について記されています。51~52節ですね。

世の終わりを告げるラッパが鳴り響いた瞬間、私たちは生きたまま死を見ることなく天に引き上げらると聖書は約束しています。一瞬のうちに変えられるのです。

エスキリストを信じる私たちは、その日が今近づきつつあることを世界情勢と聖書の預言から知ることが出来ます。

今日は、主の復活について聖書から共に学びましょう。

Ⅰコリント15:51~57.*1

エスキリストの復活とは

Ⅰ.イエスキリストだけが救いの道であるという事の保証

富士山に登る道はいろいろあると聞きます。しかし、人が死んで天国へ行く道はイエスキリストを信じる以外にはありません。イエスキリストは言われました。「私が道であり真理であり命なのです。私を通してでなければ誰一人父の身許に行くことはできません。」

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。使徒4:12.

上記のみことばは、使徒ペテロとヨハネが麗しの門というところで足の利かない男の人が主の御力によって癒されたとき、議会の前で弁明した時の言葉です。

彼らは大胆に言いました。「天下にイエスキリスト、この名のほかに救いの名はない」と。

Ⅱ.罪の救いからの保証

主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。ローマ 4:25

エスキリストはわたしたちを罪の生活から救い出すために十字架について死んで下さいました。そして、イエスキリストは甦られました。それは、私たちが神の前に義(正しい人)と認められるためでした。ということは、私たちを救うイエスキリストの十字架による罪の束縛からの癒しと回復の働きは、不完全なものではなく、完全なものであったということを、示すためだったのです。

※画像と内容とは関係ありません

Eさんにおこったこと

先日、Eさんがお久しぶり訪ねて来て下さって、お話を聞かせて下さったのですが、ワクチン接種の後、体が病んで、痛み止めの薬を飲んだが悪かったのか、その後、大量の出血があって、とまらなかったのだそうです。

着てきた衣服も駄目になってしまうほどの出血で、急いで救急車で当番病院に駆け込んだそうです。お医者さんも首をひねるばかりで何ともわからない様子だったといいます。事後、ひと月ほどたって、今ようやく治まってきたのだそうですが、ほんとに大変だったそうです。

そんなことがあって、つい先週のこと、Eさんがいつものように聖書を読んでいると、ルカの福音書から「天に宝を積みなさい」という聖書の言葉が目に留まりました。ところが、その後どうしても、その言葉が頭から離れていかなくて、久しぶりにデボーションの本のことを思い出して手にするとやはりそこにも「天に宝を積みなさい」と書かれてあったのです。

その内容は、一人の男の人が夢を見たというもので、昨日まで生きていた人が次の日には亡くなっていたという夢でした。その人は、それだけを話すと、帰ったそうですが、後日、今度は、その方の娘さんがやってきて「お父さんが急死した」ことを告げたというのです。

Eさんは、今回の騒動もあって、ほんとうだ、天に宝を積む生き方をしなくてはと教えられたそうです。

天に宝を積む生き方とは、イエスキリストを自分の心に救い主として信じ迎え入れることです。

神様は、今回の痛みを通して、Eさんに大切なことを教えて下さったと、共に感謝した次第でした。

エスキリストが、よみがえられたのは、私たちを義とするために~救いの確信を下さるために甦られたのです。救いの確信とは、十字架の上で流されたイエスの血によって、罪のゆるしを受けて、永遠の命を受けたという事への確信です。信じる人、すべての方が、その救いを信仰によって今受け取ることが出来ます。 

(私の祈り)

天のお父様。私は罪びとです。自分で自分を救えません。しかしイエスキリスト様が私の罪のために十字架にかかり、死んで下さり、三日目に甦られたことを信じます。私のすべての罪をゆるし、新しい永遠の命をお与えください。信じて感謝します。イエス様のお名前によって。アァメン。

Ⅲ.イエスキリストの復活は、私達もまた復活するという事の保証

キリストの栄光の中で、私たちが復活し新天新地へ行くという事実を、はっきり信じなくてはなりません。キリストの復活は過去の出来事としての復活ではなく、私たちの生活の中に存在して、私たちを変え、将来私たちの霊と肉を変化させて、神の国へ私たちを導いてくれる偉大な保証なのです。チョーヨンギ

Ⅰコリント15章のみことばにもあった、「携挙」ということが聖書には書かれてあります。携挙とは、世の終わりの時に、イエスキリストを信じる者たちが、一瞬のうちに消えてしまう出来事のことです。

死を見ることなく生きたまま天に引き上げられるからです。その時が近づいています。なぜなら聖書にこう書かれてあるからです。

そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。ヨハネ 14:3

世界のこれからの動向

世界はこのあとどうなるのでしょうか。

世界中の人たちがそのことで心配しています。

平和な時代が戻るのでしょうか。残念ながら、聖書はそうはいっていません。

今後、ますます混乱していくことが予想されるのです。

このあとロシアは追い詰められて、イランやトルコなどと手を組んで、イスラエルを包囲するようになると聖書は預言しています。そして、聖書はその後、その連合軍が人の手によらずに、激しい自然災害で絶滅することを預言しています。世界中からクリスチャンが姿を消す日。

また、ロシアやイランの壊滅を目にするときは、どうか、聖書の預言を思い起こしてください。大昔から世界の歴史は聖書の預言通りに進行しています。

聖書は天地を造られた神の言葉ですから、先のことが書かれているのです。

私たちの住む今の時代は、歴史の最終章にあります。

一番安全な場所は、イエスキリストを信じ受け入れる以外に救いはありません。

ウクライナで死んだ少女のこと

先日、ウクライナの小さな女の子が爆撃で大けがをし、手当てを受けたのですが、その後亡くなったニュースがありました。その女の子はお母さんに「私はこれから天国へ行きます、だから心配しないでね。そしてお母さんもぜひ天国来てね」と。「絶対に天国へ来ないようなことにならないようにしてね。天国に来てちょうだい」と。

私はそのニュースの記事を読んで思いました。一般のメディアでは、大衆受けするために、宗教的と思われる事実を省くところがあります。

私はその記事を見て、そこには書かれてはありませんでしたが、その亡くなった女の子はクリスチャンだと思いました。

でなければそのような明確な確信をもてる子はいないからです。

人の永遠の救いはイエスの復活の上に成り立っている

このコリント書の手紙を書いた使徒パウロにとって、復活や携挙は現実でした。

なぜなら、パウロは体験によって復活があると知っていたからです。

学問や知識や哲学では理解することのできない世界です。それは体験です。

聖書の教え、福音は、このイエスキリストの復活という観念ではなく、体験された出来事の上にある教えなのです。イエス様は死後三日目に甦られました。死は勝利にのまれたのです。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

エス様は死を打ち破って復活されました。聖書は他の教えと同じような倫理や道徳の教えではありません。

弘子先生のお証

牧師先生がかつて訪問してくる異端の人たちに、伝道したことを話してました。

訪問してくるキリスト教の異端と呼ばれる人たちに、玄関先で議論するのですが、最後に、牧師先生は35歳の時に絶体絶命の乳がんを患って、死に臨んだ時のことをお話しするのです。実際、かなりガンが肥大していて、医師も顔つきが変わったほどで、死を覚悟する必要があったときのことです。

しかし、これは、死に臨んだ時の体験ですね。

それまで一度も味わったことのない平安と喜びが心の底からあふれ出てくるのをを経験して、死ぬのが楽しみ?~天国の希望が満ちあふれたのですね。

パウロも同じことを言っています。この地上と天の生活とどちらを選んだらよいかわからない。そして彼が言うにはできれば天に行きたい、と。肉体の命にとどまれる利点は福音をその分多く伝えられるからだと言っていますね。

そして最後にそのことを異端の人たちに話すと、彼らは黙って帰ってしまうのだそうです。彼らには救いの確信はないからです。確信はただただイエスキリストの十字架と復活にのみあるからです。復活は、観念や学問や知識ではありません。それは体験の事実です。

そして、信じる人は、信仰によって、復活のイエスキリストに出会うことが出来るのです。

エス様の十字架の贖いによって罪のゆるしと永遠の命の救いを受けましょう。

そして、携挙に備えましょう。

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:51ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 52というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 53なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 54この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。55「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。56死のとげは罪である。罪の力は律法である。 57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。