「信仰によって義とされた人とは」
昨日は、東日本大震災から12年目の3.11でした。
今なお、多くの人が傷跡に苦しんでいます。
シリヤトルコの大地震においてもそれを越えるような被害があります。
復興と救いのために祈りましょう。
今日は、信仰によって義とされるとはどういうことなのかについて、ごいっしょに見ていきましょう。
- 義とされるとは、こころの内側が新しくなること
- 義とされるとは助け主である聖霊さまが心に来て下さるということ
- 信仰によって義とされたとは、健康が与えられたということ
- 義とされたということは、物質的な祝福にあずかっているということ
- 義とされたとは、永遠の問題を解決したこと
ローマ3:21‐31*1
イエスキリストを信じた人は、その信仰によって、神の掟、律法を完全に踏み行ったもの、聖い者として認められます。
これは、神様からの恵みによることです。
ただ、イエスキリスト様が、今から2000年前にこの世においで下さり、神の御子であるこのお方が、私たちの罪の借財の償いのために、十字架にお掛かりになり、古今東西、すべての人の罪を背負ってくださったのです。
ですからこの良い知らせを(グッドニュース福音)を信じたひとは、価なしに、天地創造主なる父なる神様の御前に、聖い人、神の子として認められ、受け入れられるのです。
では、この信仰によって、義なる者として認められるとは、いったい具体的に言うとどのようなことを意味するのでしょうか。
義とされるとは、こころの内側が新しくなること
5:17だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
Ⅱコリント5:17
イエス様を信じても鼻が高くなるわけではないし、背が伸びたわけでもありません。イエス様を信じる人は、こころの内なる人が新しくされるのです。
人間は毎日何か新鮮なものを探しながら生活をしています。
旅行をしたり、おいしいものを食べたてみたり、本を読んだり、人と会って話をしたりします。
しかし、旧約聖書の賢者ソロモン王は、人生にあるそれらもろもろを空の空と言いました。
多くの人たちが、これは新しい画期的だともてはやすものが、すでに昔からあったものに過ぎないと言っているのです。
人は赤子として生まれ、目にするものすべてが新鮮で、すべてが新しく見えます。しかし、しばらくして歳をとるにつれ、すべての物事が色あせてきて、意味を見うしない失望します。昨年も多くの人が自ら命を絶ちました。
福音書に登場するある女性は五回、離婚と再婚を繰り返しました。
今度こそ、今度こそと婦人は幸せになろうと努力しましたが、新鮮さどころか心はうつろになり、虚無感に毎日が押しつぶされそうになりました。
そんなとき、井戸端でイエス様に出会ったのです。
婦人の心の渇きは癒されました。
その理由は、彼女が、イエス様を心の中に救い主としてお迎えしたからです。
イエス様を信じることを宗教だと言ってつまらないと思っている人がいますが、それは間違いです。
福音を語る大衆伝道者ビリーグラハム師
かつて教会では伝道集会が盛んに催されていました。
お話の上手な牧師さんを特別講師に招いて、初心者の方々に来ていただいて、信仰の道についてお話をしていただき、信仰に入る決心を導く集いです。
古い聖歌「聖霊来たれり」の一節に、「目に入るものみな輝く」とあります。
それは初めて伝道集会に来て、決心をして、イエスキリストを救い主として信じ受け入れた人が、その晩の帰宅途中、いつもと同じ道を通って帰るのですが、すべてが新しく見えた!という感動的な歌詞です。
路傍の石ころまでもが輝いて見えたというすごい歌なのです!
それはイエス様を信じたその人の心が新しくされたからです。
信じて、祈りつつ生活するなら、日々が新鮮なのです。
永遠に色あせることはありません。
生きることがだるいなどということは絶対になくなります。
義とされるとは助け主である聖霊さまが心に来て下さるということ
イエス様の十字架によって罪の赦しを戴いて、父なる神さまのみ前に義とされた人には、もう一人の助け主なる聖霊さまが来て下さって、共に生活して下さることが聖書は約束しています。
もう一人の助け主とはギリシャ語で「アロス・パラクレートス」と言って、全く別の人格でありながら、本質においては全く同質、同じお方と言う意味です。
つまり贖いを成し遂げられた神第二の位格なる御子イエス様の後に、来て下さった第三位格の神が聖霊さまで、そのお方がもう一人の助け主なのです。
かつてイエス様がこの地上で過ごされたとき、エリコにいたときにはベタニヤにはいることが出来ませんでした。またベタニヤにいるときには、ガリラヤにいることもできませんでした。
しかし、この後から来られたもう一人の助け主なる聖霊さまは、偏在と言って、同時にすべの場所にいることが可能なのです。
信じた人は、毎日を聖霊様と会話をしながら過ごすことができるようになります。
先日、新聞の投稿欄に小六の生徒の記事がありました。
おはようと言うと、おはようと帰ってくる。うれしい。
ぶつかったとき、あごめんなさいと、いうと、いや大丈夫だよと返事が出てくるけれど、ぶつかっても無視したり、何にも言わないで言ってしまうと、なんだよ!と思ってしまう。
だから挨拶は大切だ。挨拶しようという清々しい投稿に、新鮮な思いがしました。
神第三のご神格なる聖霊様はご人格です。
ある牧師先生は、朝起きるとまず「聖霊さまいいお天気ですね」。聖書を読むときには、必ず「聖霊さま、父なる神の奥義であるみ言葉を悟らせて下さい」とお話をします。
一つ一つの動作や仕事に聖霊さまがご一緒されていますので、聖霊様をお認めして歩むと、こころが満たされます。
そのように信仰を持たれたなら、聖霊中心の生活を心がけましょう。
信仰によって義とされたとは、健康が与えられたということ
病は気からといいますが、本当です。
ある国では、がん患者の半数が都市部に集中しているとのデータが公表されました。悪魔は人の思いを否定的にさせることによって心と体に害を与えています。
このような否定的な思念や、思考に打ち勝つにはどうすればいいのでしょうか。
感謝と賛美することにその秘訣があります。
人は、否定的になればなるほど益々次の否定的な思いの虜になります。
私はダメ、できない、無理。
あるクリスチャンが不平不満と愚痴の悪霊に取りつかれたそうです。
悪霊は信じる者のうちに入ることはできなくても、なんらかの形で悪い影響力を及ぼすことがあり得ます。オカルトをみたり、占いをしたりするなら、その影響を受けます。
なんども解放の祈りをしてもその人は愚痴を不平を言う癖から、自由になれませんでした。しかし、最後に、ただ感謝と賛美をするように指導したところ、
自分の思いに逆らってでも、「イエス様感謝します、聖霊様賛美しますっ!」とずうっと祈らせると、その人から悪いものが出て行って、自由と解放と喜びが爽やかな聖霊さまによる自由が訪れたそうです。
なぜなら悪魔の人格は、不平不満と愚痴で、それらは悪霊の餌のようなものだからなのです。
イエス様によって私は義とされたものであることを信じます。
ですから私にはできます。
大丈夫です。
私の病は癒されましたと告白することです。
世界中で、抗うつ剤が売れているようです。
学校の教師、家庭の主婦、ビジネスマン、サラリーマン、多くの人が薬を飲んでいます。
しかしそれは一時的な処方です。
聖書のみことばにより、今も昔も変わらない聖霊さまによって、信じる人は癒されるのです。
ストレスから日々解放されて、自由にされます。
嘘だと思ったら、言ってみてください。
私はイエスキリストの御名によって、健康ですと。鏡に向かって、100回くらい言ってみて下さい。主は癒して下るのです。
イエス様のお名前によってすべてのストレスから、病から解放されましょう。
義とされたということは、物質的な祝福にあずかっているということ
旧約聖書の約束には、信じる者を父なる神様は「尾とはならせず頭(かしら)とならせる」とあります。
天の父なる神様は、イエスキリストの十字架の血によって、贖われ、義とされた人たちが、だれかからお金を借りたり、または借りたままでいたりとか、そういうことにはさせません。
人に貸すことはあっても借りることはないとあるのです。
日本経済はクリスチャン人口が増加することによって豊かになることでしょう。
しかし、その祝福は、来るべき「千年王国」の時代に実現するのです。
しかし、このプレ患難時代においても、最後まで、信じる者が行くところには必要なものが備えられ、豊かさが増し加わるようになると信じます。
今貧しいようであっても、疑わないで、失望しないで種をまくことで従うことで、お仕事や、家庭や、学びや人間関係が祝福されていくようになります。
リタイアした牧師たちが、老後の生活に困る原因は、祝福の福音を語らなかったからではないでしょうか。
自分の子どもに、貧しい暮らしを望む親などいるでしょうか。
たとえ自分は食べなくても、子らにはいいものを食べさせたいと願うのが親です。天の父なる神様は、信仰によって義とされたものの生活が経済的にも恵まれることを願っておられのです。
十一返金の祝福
しかしそのためには私たちの側で果たす一つの大事なことがあります。
私たちは日本国民です。
日本国民であるためには、税金を納めます。
納税しないでいると、家財などで没収されます。
同様に、神の国の臣民であるクリスチャンは、全収入の十分の一を主のものとして神の宮に納める義務があるのです。それをないがしろにするなら、祝福はありません。なぜなら、聖書は明確に人の全収入の十分の一は、父なる神様のものだと宣言しているからです。
彼は、今日の私たちの模範となるために、戦いに勝った時、戦利品の中から十分の一を神のものとしてもってきて、神の祭司メルキゼデクにお返ししました。
それは神のものだからです。神のものに手を付けるなら祝福はとどまるのです。
しかもアブラハムがその礼拝行為をしたのは、まだ律法が与えられる何百年も前の出来事でした。つまり信仰の父祖と言われたアブラハムの信仰による模範は、律法によってではなく、信仰によって捧げられたものだったことを忘れてはいけません。
ですからイエスキリストの十字架の血によって義とされて信仰によって義とされたものは、十分の一を神のものとして返金をするように招かれているのです。
どうぞ信仰をもって、感謝をもって、十一返金をしてください。
父なる神様がその人の生活を今以上に祝福されますように!
メルキゼデクはパンとぶどう酒でアブラハムを祝福されました。
ですから自分が属している教会に什一返金を携えてきて、主にお返しするのが筋です。
これからも実行してください。またまだされていない方は今日悔い改めて実行しましょう。
義とされたとは、永遠の問題を解決したこと
私たち人間の永遠の宿題は何でしょうか。
仕事や家庭や人間関係や性格の悩みなど様々ですが、その一切の問題の解決のために、絶対的に解決しておかなければならない根源的な問題は、自分がどこからきて、どこへ向かっているのかという宿命的な問題です。
そしてこの宿命的で根源的問題に、明快な回答を下すのは、永遠のベストセラーと呼ばれているこの聖書だけです。
もうまもなく世の終わりの時が来て、すべてのイエス様を信じた人たちを迎えるために、七年間の大患難の直前に、父なる神さまは、御子イエス様をもう一度、空中にお下しになり、そのときイエスキリストを主として受け入れ、信じた人たちは、甦って天に引き上げられ、次に生きたまま私たちは空中に引き上げられる時が来ます。それは携挙です!
私たちは伝道しなければなりません
ある牧師先生のお話に、汽車に乗って出かけたときのこと、疲れていたにもかかわらず、異言の祈りが口から出てきて、同席したおじいさんに伝道しなさいと促されたそうです。
聖霊さまの指示に従って、牧師はまずあいさつから始めて伝道しました。
おじいさんが曰く、自分も子供らも成功者で、何不自由なく暮らしていること、今さら信仰など必要ないとのことでした。
その牧師は、こりゃダメだなと思って仮眠をとろうと目を閉じると、また異言が口から出てきて聖霊さまは、「伝道しなさい」と言います。
「お爺さんイエス様を信じないと地獄へ行くんですよ」。
おじいさんは怒り出しました。
車掌を呼んで、「この若造をここから追い出してくれっ!」と怒鳴りました。
車内の人たちの目が、その牧師に集中しました。
牧師はいたたまれなくなって、どうしていいかわかりません。
少し仮眠をとって目を開けると、おじいさんは、お酒を飲み始め、さっきは悪かったなと言って、お酒をすすめてきたそうです。
そのとき、突然に伝道者は「おじいさん!いまあなたは地獄をのでいるんですよ。死んだら地獄へ行きますよ」と言ってしまいました。
あまりの言い方に伝道者自身めんくらってしまって、「あ、おじいさんごめんなさい」と謝ったそうです。それから牧師は目を閉じました。
どれくらい時間が経ったのか、自分の体を強くゆする人がいて目を開けると、目の前に、さっきの車掌と警察官が立っています。
「あなたは、さっきここに座っていた人の知り合いですか」。
「いや、伝道をしたのは事実ですが、知らない人です」。
「そうですか。実はそのおじいさんですが、さきほど、酔ってトイレに行き、風にあたろうとしてデッキに出たとき、はずみでそこから落ちてしまったのです。即死でした。」
死は突然やっています
おじいさんが数時間後に死ぬなどとは誰にも分らないことでしたが、すべてを創り、ご支配なさる天の父なる神様の聖なる御霊、聖霊さまはごいっさいをご存じなのです。
私たちはいつ死ぬかわかりませんし、また携挙の瞬間がいつなのかもわかりません。
ただひとつのことは、死の瞬間、携挙の瞬間のために備えをしなければならないということです。
実は、私にも、あの時伝道しておけばよかった、という人が数人います。
一人は、学校の先生でした。もうひとりは医者でした。
先生は、病気でまもなく命を落とされ、医師は自殺でした。
実は、まだほかにもいるのです。
あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。ヤコブ 4:14
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 3:26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 3:27すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 3:29それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 3:30まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 3:31すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。