「信仰による後見人」
先日、Mさんのことで成年後見センターという所へ行ってきました。結局は、もういちどケアマネさんにお願いしてみては、という事になりました。
今回は、「イエス様にある後見人」ということについて、お分かちしたいと思います。
後見人とは法定代理人といいます。
それは、お歳をとったり、若くても判断能力のない人のために、本人に代わって、財産の管理や身の回りのことをお助けする人のことです。
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。ヨハネ14:13,14.
イエス様にある後見人の立場
イエス様を信じた私たちは、イエス様を信じる信仰によって人生の後見人、永遠の後見人とされています。
魂の救いに与り、また救いを分かつ後見人
イエス様を信じた私たちは、イエス様の贖いによって、魂の救いを得ました。
主の祈りの最初の祈りは、天にいます私たちの父よ、御名があがめられますようにです。
この「崇められますように」と訳されている個所は、直訳では、あなたの御名が聖であられますように、聖くありますように、「御名の聖さ」があがめられますようにと言う意味です。
「聖」は英語でホーリネスです。
それは特別に取り分けておくという意味。
私たちはイエス様の血潮で神様の目的のために、取り分けられたものです。
ですから、毎日お祈りするときに、どうか、あなたに私の今日一日をお捧げ致しますとお祈りしてから、一日を始めて下さい。
「ともにいて下さる聖霊さま、今日もあなたをお認めします。お捧げします。歓迎します。あなたのご目的のために私をお使いください」と祈りましょう。
そして、だれだれさんがイエス様を信じて救われるところを思い巡らせて祈って、そして計画を立てて、勇気を出して出掛けていきましょう。
私たちは魂の法定代理人です。
聖霊と共に歩む後見人
私たちは、イエス様の御血によって聖霊様と共に歩む後見人=法定代理人とされました。
先日のエリザベス女王の葬儀では、新首相がヨハネ伝を朗読し、その後、カンタベリー大主教が告別の説教をされました。すごいな。さすが、英国国教会と思ってテレビを見てましたが、その後、もっとすごいことが起こったようです。
大主教の開口一番が、come Holy Spirit!だったのだそうです。
大主教は異言を語ることを公言される方だそうで、その歴史上重大な葬儀に際して、聖霊さまのお力を求めて祈られたのです。
葬儀には日本の天皇陛下御夫妻をはじめ、アメリカ大統領、世界中の首脳たちが参列されていて、数々の宗教、国家の権力者たちが同席し、さらには衛星中継、ネットでなんと41億人の人たちがその葬儀を見守っていたというのです。
これは、歴史的な世紀の大伝道集会でした。福音がばっちり語られたそうです。
これは携挙の時が間近に迫ってきているからでしょう。世界の二人に一人が福音を耳にした単純計算になります。
その「聖霊さま」“Holy Sprit”とは、神第三位のご神格でいらっしゃり、目には見えませんが、聖書ではイエスと同等の、父なる神と同等の、同質の、もう一人の助け主という異名をお持ちの神であられます。
なにかフワフワと雲のようなお方なのではなく、人格を備えた神第三位のお方です。
イエス様と同質のよく似たお方、それでいて全く別の神様と言う意味です。
私たちの教会の牧者も聖霊さまです。
私はアシスタントです。
また、兄姉たちの人生の主も、聖霊さまですね。
なぜなら皆さんの人生は、イエス様の十字架によってすでに終わったからです。
今生きているのは、聖霊さまによってキリストの人生を生きているからです。
わたしたちの人生のボスは聖霊さまです。
病をいやす天国の法定代理人=後見人
私達には病人の癒しのために祈るという務めが与えられています。
やめる人たちのために祈ることで、一つ気付いたことがあります。
それは病にかかっている方は多いということです。
みんな、いろんな不具合、病気を抱えておられます。
そのなかで先日、感謝なお証がありました。
長野県のR姉にお電話した時、嬉しそうに、膝の調子がいいんですと話されていたことです。湿布を貼ってよくなったとのことでしたが、確か湿布はこれまで効きが悪かったようなのですが、今回良くなった!というのです。
小さな癒しでも、ご本人にとっては大切なことです。膝が調子いいのと悪いのとでは全然違います。癒しの祈りを続けましょう。
そのための祈りの力を兄姉は主から受けています。
病人に手を置けば病人はいやされると約束されていますね。
それはイエス様の遺言的なお約束ですから、み言葉に基づいて祈れば癒されます。
祈って求めるものは何でも主から戴くことが出来るということ
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。ヨハネ 15:4(新改訳聖書1965年版)
イエス様は私たちに求めるものは必ず与えられると約束されているのです。
そして、そのためには、私にとどまりなさい、と言われたように、それは祈りのうちに聖霊さまと交わる時間を過ごしてくださいということを主がおっしゃったのです。
祈りは聖霊さまとのお時間だからです。
ヤーウェ・エレなる神様は私たちに必要なものをご存じの神さまです。
それは、見る神さまと言う意味です。
あらかじめご覧下さって必要なものを知っておられる神さまと言う意味です。
しかし、天の神様は私たちが率直に何をしてほしいのかを明確に求めることを待っておられる神さまでもあられます。
福音書で「私に何をしてほしいのか?」と何度も主は言われました。
そして願いが実現するときには、「あなたの信じたとおりになれ」=期待したとおりになれ!
そういわれました。
ですから私たちは祈る時にできるだけそこにとどまって、息を吸ったり吐いたりするように夢とビジョンを温めるように、願い求めましょう。
しかし、情欲で求めてもそれは無理ですね。
父が栄光をお受けになるような願いと祈りでなければならないはずですから。
今月から値上げというニュースにも、恐れる必要はありません。
かならず、主は求めるものに食べ物を下さり、必要なものを備えて下さる神様ですから。
英国の孤児院を経営していたジョージミュラーは特別な後ろ盾も援助もなかったのですが、祈るとその日その日パンが与えられて、二千人の孤児たちを養った言われています。
中国奥地の伝道団の創設者だったハドソンテーラーも、特別なバックも何もなかったのですが、二十歳ほどで単身中国へ渡って、やがて宣教の働きを続け、その後、千人の宣教師を中国の各地に送るまでになりました。
彼らの働きは信仰のミッションと呼ばれていました。
全て祈りだけで与えられからです。
私たちも、踏み出しましょう!
信仰のミッション。
私たちの神様は無から有を生じさせる神様なんですよね。
もし、兄姉が気まぐれじゃなくて、ほんとに時間を定めて、主を求めだして、聖霊様との交わりである祈りの中で息を吐いたり吸ったりするなら、遠からず夢とビジョンを抱くようになると信じます。
そして得るまで見るまで祈りましょう。
そのための、ぜひのお勧めがあります。祈りのノートを用意することです。
なぜなら私たちはいい加減なところがあって、何を願ったか忘れてしまう所があるからです。
ノートを見返して、もう一度、息を吐くように主に願い求める。
「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」
主はそう私たちに約束されているのですから。
ヤコブ書にあるように、受けることがないのは、求めないからですね。
悪いことのために使う目的ならダメですが、しかし、御心の中で祈り求めれば‥‥。
食べたり飲んだり、買ったり、与えたり、着たり、必要なことはすべて御存知の神様です。
神様は私たちを御血によってこの世における御国の後見人としてお建て下さっています。
Ⅰ.魂の救いです。そして、魂の後見人です。
Ⅱ.聖霊様と共に歩む後見人です。
Ⅲ.病をいやす後見人です。
Ⅳ.祈って求めるものはなんでも主から戴くことが出来る後見人です。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。