聖書のある暮らし

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「世の終わりの時代の福音」

福音とはなんでしょうか。

今は終わりの時です。

ご一緒に「世の終わりの時代の福音」というテーマでみことばを学びましょう。そして、この世の終わりの時代に確りと福音の真理に留まりましょう。

Ⅱペテロ3:8-14.*1

福音とはなにか

①福音とは新しく生まれ変わることです。

ある牧師がミッション系の高校のチャペルで福音を語ったそうです。

すると終わった後、クレームがあって、そういう話はしないほうがいいと注意されたそうです。

エスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ヨハネ 3:3

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。第二コリント 5:17

聖書に書かれてある通り、福音とはイエス様を信じて内なる人が新しく生まれ変わることです。新生といいます。

信じても外側は変わらないのですが、イエス様を信じた人の内側の霊は新しく生まれ変わるのです。

アメリカの70年代にデービッド・バーコウィッツという連続殺人犯がいました。彼は逮捕されて服役中に、同じ服役中の囚人から伝道を受けて、聖書を手渡されます。最初は反発していたのですが、聖書を読んでいくうちに、自分のしてきたことの重大さに気が付くようになり、彼は獄中で泣いて自分のしてきたことを神の前に言い開き、悔い改めて、なんと獄中で回心してしまったそうです。

ニューヨークには死刑制度がないそうで、釈放されるときが来たのですが、彼はそれを拒み、その後も刑務所内で自分と同じように罪を犯してきた人たちに、伝道を続けているそうです。

変わりましたよね。使用前、使用後のようです。

このようにイエス様を信じれば、外なる人は衰えて行っても、内なる人は日々新しく益々変えられるのです。聖霊様に期待していきましょう。

②福音とは聖霊に満たされることです

あなたがたは春の雨の時に、
雨を主に請い求めよ。
主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、
野の青草をおのおのに賜わる。ゼカリヤ書 10:1

「後の雨」とは世の終わりの時代に降り注がれる聖霊の注ぎのことと言われています。

最初の雨は、初代教会の誕生の時にありました。ペンテコステです。

そして、この後の雨とは二十世紀初頭にアメリカはカンザス州のトペカという所で起こった異言の伴う聖霊バプテスマ運動のことです。

このとき、世界中からこの聖霊の火を求めてやってきました。

20世紀は多くの人が救われた時代だったのではないでしょうか。世の終わりリバイバルです。 

異言で祈るなら、聖い生活を送る力が与えられます。

聖霊充満は、神様に自分を明け渡した人に与えられます。

また、それは執り成しの命の力でもあります。

ケネス・ヘーゲンは、どう祈ってよいかわからないときは、異言で祈ったそうです。私も、今年、いつもとは違った異言が出てきて、しばらく祈ると、その後、新しい方が教会に来たりとか、不思議なことがありました。

異言は人に聞かせるものではありません。それは神との間で、奥義を語るもの~御心が分かるまで異言で一人で祈ってみてください。神様の不思議が行われます。

また、異言で語らない人の信仰が劣っているということでは決してありません。

しかし、異言の恵みは絶対的に過小評価してはいけない、とても素晴らしい恵であることには間違いありません。

③それは癒しの福音です

現代に癒しは止んだとする教えがありますが、聖書はそうはいっていません。

聖書にはたくさんの癒しのついての約束のみことばがあります。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。イザヤ書 53:5

このみことばの時制は、過去です。癒されるだろう、癒されるかもしれないでもなく、癒されたです。み言葉に基づいて祈る、それは祈りの深さとかによってでもなく、ただみ言葉の約束に基づいて、神様は癒して下さるということです。

癒しと守りは私のものです、と言って宣言しましょう。

先ほどのケネスヘーゲンの本の中に小さな女の子の癒しの証しが載っています。

小児麻痺で足が垂れ下がっている女の子でした。

集会で祈ってもらいましたが、その時はなにも起こりませんでした。

帰宅して母親はその晩、いつものようにその子をお風呂に入れてあげていたとき、昼間のヘーゲン師の話されたことを思い起こしました。癒されなかった悲しみの中で、ただみことばを信じたとき、ポンと音がして、瞬間的に女児の足は伸びて、癒されたのだそうです。

もし、祈っても癒されないとき、癒されなかったのではありません。

その時癒されなかっただけです。

癒しは始まっているのです。

癒しは瞬間的で、癒しは時間がいる場合もあります。

今日、あまりにも多くの人たちが病気を抱えて苦しむ中で、どうかイエス様を信じて癒しを受けられますように。

癒しにもいろいろありますが、新興宗教などによる悪霊の四次元からくるものもあります。しかし、真の癒しはイエスキリスト様を通して、教会を通して、聖霊さまによって癒されます。

この世の終わりの時に癒しの祈りをもって、福音の御業を進めましょう。

また、やめる人がいたらぜひ教会に連れて来て下さい。祈りましょう。

④福音とは祝福があたえられることです

神が物質的な祝福を下さるという教えをご利益だとかいって批判する人がいるそうですが、聖書は私たちに確かに物質的な祝福を約束しています。

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。第二コリント 8:9

旧約聖書申命記28章では、呪いと祝福について書かれています。

そして、はっきりと聖書は申命記21:23で木にかけられたものは呪われたものであると語っています。イエス様は私たちのために十字架に掛かって呪われたものとなって下さったのです。

ですから信じる私たちはその呪いを負う必要はもうありません。

神様はイエス様の血潮によって、信じる者に祝福を命じておられるのです。

いま、物価がこれまでにない高騰を示し始めて、気候変動によって、世界の食料供給のリスクが南米でもアフリカでも世界規模のようです。

この世の終わりの時に今までなかったような食糧難が来ようとしています。

しかしイエスキリストの福音によって呪いから解放されている人は、守られます。

神様は天からマナを降らせたお方でしょう。

またイスラエルを世界的な飢餓からヨセフを先にエジプトに遣わして彼らが餓死しないように守られたお方でしょう。

世の終わりの時に神の主権を認める人を神様は守られます。

今日において神のご主権を認める方法として、聖書は全収入の十分の一の返金と捧げものについて教えています。

それは現代における善悪を知る木とも呼ばれています。

これを手控えるなら、そのとき、神の主権を侵すことになり、祝福はとどめられます。

このことについて、今日、間違った教えがあるようです。

十分の一は教会に捧げなくてもいいとか、旧約聖書の教えだから守らなくてもいいだとか。

これは終わりの時代のサタンの惑わしです。

エバはサタンに惑わされて神の主権に異議を抱き始めました。

しかし、最初のアダムは失脚しても、第二のアダムであるイエス様は異議を申し立てなかったのです。

十分の一返金と捧げものの信仰を回復させるとき、その人の信仰は豊かに祝されることでしょう。

⑤再臨と永遠の命の福音です

これは驚くべきことですが、人口の密集した都会部で、再臨についての混乱した理解があるようです。一応、教理としては受け入れていても、いざ携挙とか、再臨となると明後日のことのようにしか思えない。この地上がいつまでも続くかのような信仰観に堕している教会があることです。

そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。 6:17御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。黙示録 6:16,17.

再臨とは何でしょうか。

エス様が、裁き主としてこの世にお戻りなることです。

最初は、初臨といいます~世の救いのためにおいでになりましたが、今度来られる時は、救い主ではなく、裁き主としてお戻りになります。

ここに子羊の怒りとあります。

私たちは、救い主の愛なるイエス様のことしか知らないところがありますが、これは恐ろしいことです。

今、七年間の患難時代の直前のような感じがします。

今回、強硬派のネタニヤフ氏が返り咲きました。

ゼレンスキー大統領は、アイアンドームと言う鉄壁のミサイル防御システムをイスラエルに所望しています。

いま、火力兵器が底をついてきていると言われるロシアがイスラエルを総攻撃するというエゼキエル38章の終末の時代の預言が実現しようとしています。

また、すでに666はスタンバイの位置についていると言われています。

それは何を意味するのかと言うと、クリスチャンにとっては喜ばしいことですが、未信者の方々には、または主の主権を拒む自称クリスチャンたちにとってもつらいことですが、携挙の時が近づいてきていることを覚えなければなりません。

先週の木曜日、祈りに集中していた時、再臨が極めて近いことを示されました。

それは信じない人たちにとっては恐ろしいことです。

そして、イザヤ書を読むと、携挙があってもなにがあっても、最後まで教会や福音やクリスチャンたちを嘲る人たちは、そうすることをやめずに、滅びの道を進んでいくともあります。

この終わりの時、福音を堅持する

世の終わりの時、福音を曲げる働きがあります。

特に「イエスの血潮」を語るなと言う教会も出現し始めてから久しくあるようです。驚くべきことですが、ほんとうのことです。これは大変なことです。 

しかし、どうぞ、私たちは最後まで与えられた純粋な福音をしっかりと握って、あのダニエルのように終わりの時に至るまで、歩き続け、しっかりと福音に立ち続けましょう。

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:3:8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 3:9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 3:10しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 3:11このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 3:12極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 3:13しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。3:14愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。