聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「使徒パウロの信仰の模範にならう」

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。使徒 20:35

特に、今日は、「万事につけ、(あなた方に)教え示したのである」と言う個所に目を留めましょう。

この短い分からパウロという人は、常ひごろから人々の模範になることを心掛けていた人であったことがうかがい知れます。

実際パウロは「私たちは、すべての人に知られ、また読まれている」と言っている個所もあります。第二コリント 3:2

信仰者は歩く聖書、また歩く小さなキリストなのです。

キリスト者=クリスチャンとは小さなキリストと言う意味ですね。

父なる神様が信じる者の中にお与えになった神の御霊による影響力というのがあります。

今は終わりの時代です。

そして、世は、それゆえに、ますます敏感にクリスチャンの行動や生活に目を留めるようになってきていると思われます。信じる者には、責任があります。

オイコドメオー(ギリシャ語)とは、お互いが共に建て上げていく信仰生活の大切さを表す新約聖書の中の言葉です。

受けるより与えるほうが幸い

パウロは、主イエス様の言葉を引用して「受けるより与えるほうが幸い」と言っています。

その理由は、人は与えることによって成長するからです。

クリスチャンとしても、お互いの信仰が成長することを父なる神様は願われているのです。

命あるものは、かならず成長します。

人のことを優先的に考えて行動する人を時折見かけると、なんだか自分が恥ずかしくなる時があります。

ミニ猫のカジャ

むかし、カジャという猫を飼っていました。

車のボンネットの中でカジャは隠れていました。

拾い上げて、家の中で買ってあげることにしたのですが、その猫はいつまでたっても大きくなりませんでした。たいていは八か月もすれば大きくなるのですが何時まで経っても小さいままでした。

はは~、この猫はこれ以上大きくならないことに気付きました。

これは猫だからいい話ですが、もし人の赤ちゃんがいつまでも赤ちゃんのままだったら、悲劇です。

聖書は私たちにキリストの身丈目指して成長しなさいと教えています。

わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 エペソ 4:13

クリスチャンであれば、信仰者としての成長している印の一つが、利己的で自分の情欲に従って気ままに幸福を求めて生きるのではなく、三位一体の第三位格の神であられる聖霊様の願いを祈り求めて、御心に従おうとする姿勢を持つ人です。

永いこと私は聖霊様とは自分の願いを聞いて下さる神様だと思っていました。

しかし、実際はその逆だったことにかなりたってから気づきました。

聖霊様は、人間の願望に仕えるサーバントなどではありえません。

聖霊さまをおもてなしします

ある教会の先生は礼拝ごとに、必ず「聖霊さまをおもてなします」と皆の前で言います。

最初は「おもてなし?」と思いましたが、よく聞いていると、それは聖霊なる目に見えない神様、いつも一緒にいて下さる神様にお仕えしますという意味でした。

敬虔の訓練

聖書は私たちに敬虔の訓練ということを教えています。

4:7しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。 4:8からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。第一テモテ 4:7,8 

最後のところは、新改訳聖書では「すべてに有益」と訳されています。

ですから「敬虔の訓練」というのは、聖霊さまの御旨(みむね)を求めて、その御旨にお仕えするということです。

そして、神様は私たち一人ひとりが、主の御旨の中で、建て上げられて行く、キリストに似たものへと成長していくこと、そして、このパウロの姿勢のようなクリスチャンになることを目指すということなのです。

そのような献身を父なる神様は、お一人ひとりの忠実なクリスチャンたちに求めておいでです。

老練の使徒パウロから若い伝道者テモテへ

あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。第一テモテ 4:12

若く見られるな!軽んじられるな!と言う勧めは、なにも偉ぶっていなさいという意味ではなくて、愛のゆえにそういうことを言っているのです。

それはさっきのギリシャ語の「オイコドメオー」のことです。

ブリックが一つ一つ重ねられて小屋が出来上がっていくような良いものが建て上げられていくような意味です。

具体的には、私の話す言葉や態度が誰かを躓かせたり、傷つけたりはしないだろうか、またはしなかったか?と言う配慮する優しさです。

更には、自分の話す言葉や態度や内容で、誰かが建て上げられて行ってほしいという愛の配慮です。

伝道=愛の行為

先週、ある方の所を訪ねて訪問しました。

どうか皆さんもぜひ、今週はどこに行こうか?

誰の所へ行こうか祈ってみましょう。

この新しい年、自分は誰それさんの所へ伝道へ行きましょうか、と聖霊様にお尋ねしてみましょう。

また明日のためには、「明日は誰に伝道しようか」と祈り考えましょう。

そして新しい週を迎えたら、今週はどこへ伝道に行ったらいいでしょうかと祈りましょう。

これもまた模範

前日までやる気満々だったのですが、訪問に出掛ける当日になると、なんだか行きたくない気がしてきました。

ある先生のお勧めによると、訪問伝道は気楽にやると良いそうです。

そして一度決めたらどんなことがあっても計画通りに実行するといいそうです。

かつて、伊藤弘子牧師先生が話されていたことを思い出しました。

昔、よく牧師先生は、寝たきりの人だとか、それこそ統一教会の幹部だった青年のお母さんだとかを訪問しては、信仰にお導きされていました。

まだ教会は小さくて、今よりもまだ小さかった時代でした。

訪問から帰ってきたとき、「いや~今日の訪問はよかったあ」と言うんです。

なぜそう話すかと言うと、実は牧師先生でも、いざ行こうとなると、「あ~なんだか行きたくなくて、行きたくなくてえ~」。今でいう、いきたくねぇーですね(笑い)  

体も弱かった人でしたから。

でもそんななか、思い切って行くと、素晴らしい伝道と交わりが出来たと言って喜んでいた。そんなことが何回かあった記憶があります。

世界中のすべての人が、イエスキリストが主であると受け入れるか拒むかという選択をする機会を与えられない限り、主も戻ってこられない。チョー・ヨンギ

これは20年ほど前に書かれた本の一節ですが、チョー先生はこれが再臨の条件だというのです。

そして、世界のまだ未伝の地域の八割がアジアに集中していると言います。

霊の親となる気構え

暮らしにペット・和やかファミリーというキャッチフレーズがありますが、さっきのカジャの話のように子猫でさえ家に入ってくると雰囲気が変わるんですよ。

そして食事のことを考えてあげたり排せつのお世話をしたり。病院にも連れていきましたし。

簡単なことではありませんでした。

お世話することは忙しいことです。

これが大切な教会にやってきて救われるべき魂のことだったらどうでしょうか。

クリスチャンは聖書を読んで祈ることで成長しますが、そうなるとほっこりしてしまって、なかなか新しい生命のことまでは考えが及ばなくなり、次第に内向きの教会に転じていくと言われています。

それは腐敗の始まりでもあります。見なくてもいいようなことを見たり、考えたり、気にしたり。伝道しなくなった教会は腐敗していくのです。

なぜなら命は必ず成長するものだからです。

そしてそのような伝道と牧会への腐心する心、心を砕くことが信仰生活の成長の糧になるというのです。

霊的に成長する秘訣は、聖書を読み、他のクリスチャンと交わることだけではありません。むしろ、最も効果的な方法は、主にあって霊的な意味での親となることです。チョー・ヨンギ

エペソ 4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。エペソ 4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。エペソ 4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい

人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えること。

だからと言って、今日は緊張して何を話そうか‥‥と固くなることはないと思いますが、いつものように自由に交わればいいと思いますが、今日のこれらのことを心にとめてみましょう。

聖書を開いて黙想の中、瞑想の中に、聖霊さまが具体的に語り掛けて下さることと思います。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります
コロサイ 4:6

とってつけたようなぎこちないものではなく、自然にそうなりますように。

終わりの時代だからこそそうしましょう

またこのことについてはⅠテサロニケ5:1~11を開きましょう。*1

ここでは、再臨間近のことを言っていますが、

そのために必要なことが徳を高めあう、オイコス、オイコドメオーだということが書かれてあります。

それは建て上げていくということなのです。

こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。ローマ 14:19

私たちキリスト者は、歩く聖書、歩く小さなキリストです。

私たちは、注目されています。

そして、世の中は教会に期待しているのです。

使徒の働き2章の教会は、そんな教会でした。

全ての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えて下さった。2:47.

そして、

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった使徒 5:13,14

どうぞ、キリストの身丈めざして。

敬虔の訓練。お互いの徳を高めあうこと。

それはオイコドメオーの教会。

その時に自らの成長がそこにあるのです。

使徒パウロの親心のことを考えましょう。

 

それはキリストを愛する心から生まれたものです。

韓国に、ジョンピルドという先生がおられます。

この方は、敬虔は力、実力だと言っています。

とても恵まれた方でしたが、それでも、ある時期、こころが渇いて空からの状態になったときがあったそうです。そして、彼は熱心に主を求めて祈ったそうです。すると彼の考え方が変わり、話すことばが変わり、あちこちに行って福音を伝えるようになったそうです。

そのピルド先生がたの教会は韓国の釜山にある教会なんだそうですが、今では教会員の方々は燃えに燃えて、釜山の50万の魂の救いを教会をあげて熱心に祈る教会だそうです。

一万の小グループを祈り、5千人の宣教師の派遣を祈っているそうです。

 

私たちもそのようにして、生きた信仰、熱心さを主から戴きましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:5:1兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 5:2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 5:3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 5:4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 5:5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 5:6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 5:7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。 5:8しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。 5:9神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 5:10キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 5:11だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。