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「神と戦い、人と戦って勝った人」

今回は、「神と戦い、人と戦って勝った人」と題して、ご一緒に聖書のみことばを見ていきましょう。

創世記32:22~32*1

ヤコブの名前が改名されてイスラエルになったわけ

なぜヤコブの名が、イスラエルになったのでしょうか?

彼の名のヤコブには「人を押しのける」という意味がありました。

その名の通り彼は大きくなってから、お兄さんの祝福を横取りする、ずるい人になりました。

しかし、時至って、ヤコブは、それまでのような人をだましたり、騙されたりするような人を相手にする生き方から、神を相手にする生き方をする人へと変えられたからです。

それまでヤコブは、自分の知恵や判断力だけで人生を切り開いてきましたが、神に祈りながら、神様のお導きを求めながら進んでいく人へと変えられたからです。 

神の遠大な壮大なご計画というものがある

彼は相当なずる賢い人だったかもしれませんが、一つだけ良い面がありました。それは神様からの祝福に敏感だったことです。

当然の順序では、神の壮大な祝福は、アブラハム→イサク→エサウとなるはずでしたが、残念なことにエサウという人は、霊的な祝福、つまり人生を神のご計画に従って進んでいここうとする願望に乏しい人でした。

お兄さんのエサウは一杯の食べ物と大事な長子の権利を交換してしまうほど、霊的な祝福には関心の薄い人でした。

この旧約時代の長子の権利とは、父なる神様からの約束を相続することが出来る権限だったのです。

御父は、アブラハムにあなたの子孫は天の星のように多くなると約束されました。

26:2その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。 26:3あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。 26:4またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。 26:5アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。創世記 26:2-5.

上記の聖書の個所は、 二代目イサクに神が約束された祝福の個所です。

その祝福の約束とは壮大なもので、末代に至るまでの大きな祝福の約束でした。

しかし、お腹が空いていたエサウ即物的な人で、そんなすぐに目にすることのできないような祝福の約束などは、どうでもいいことだったのです。

ですから、聖書は彼が「長子の権利を軽蔑」したと書いてあります。

 

エサウにとっては今がすべてでしたが、ヤコブは違った心を持っていました。

それはかつて母親リベカから、神様からかつて戴いていた預言について聞いていたからでもあったのでしょう。

預言とはお一人ひとりに対する神様からの愛のメッセージのことです。

25:22ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。 25:23主は彼女に言われた、

「二つの国民があなたの胎内にあり、
二つの民があなたの腹から別れて出る。
一つの民は他の民よりも強く、
兄は弟に仕えるであろう」。

創世記 25:22,23.

リベカが主の御心を求めました。祈ってみたのです。

そのとき、いただいた天からのメッセージが兄が弟に仕えるようになるというものでした。

多分、母リベカはその預言のことを、かねがねヤコブに話して聞かせていたのでしょう。

ですからヤコブは幼少のころからずうっと、そのまだ小さかった胸の中で「神様の祝福に与りたい」という、言い換えると霊的(神のご計画)な祝福を追い求める素地が作られていたのです。

自分は、やがてこの天地を創造された偉大な神の壮大なご計画~一つの国家が自分から生まれ出るのだという祖父アブラハム、父イサクからお約束にかかわりを持つような人になるのだという熱い願望でした。

私たちも祈る時、熱い願望を持って父なる神様からのビジョンに心燃える人になりましょう! 

しかし、この時のヤコブはまだ、ペテン師とも言われるくらい自己中心的な性格をしていて、神のご計画の実現のために、静かに祈りをもって待つなどということは到底できない人でした。

神様はご真実な方

しかし父なる神様は真実なお方です。

逃げたヤコブを諦めることをされませんでした。

天のお父様は、私たちが、御父の私たち一人ひとりにお持ちであるご計画が実現していくために、私たちをも決してあきらめることをされずに、逆に、祝福を受ける相応しいものとなるために、祝福を受け止めることが出来るように私たちを訓練され、祝福を受け止めることができる器になるように整えて下さるのです。

私たちは、父なる神さまのご計画に従って召された一人ひとりです。

天地が存在するようになる以前から、御心の内にとめてくださっていたというのです。

139:7わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。
139:9わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。詩篇 139:7-12.

139:23神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、
わたしを試みて、わがもろもろの思いを
知ってください。
139:24わたしに悪しき道のあるかないかを見て、
わたしをとこしえの道に導いてください。詩139:23
,24

もし私たちがこのような事実があることに目を留めて、神様に自分を明け渡すなら、父なる神様は、私たちお一人ひとりの人生にご介入して下さって、祝福を受けるにふさわしものへと、私たちと整えて、変えてくださるのです。

人を押しのける者ヤコブは、自分の判断や知恵知識で行動してきました。

しかし、神様はヤコブがもうそれが通用しないのだということが分かるように、そして父なる神さまのお力によらなければ何事もなしえないのだということが分かるまで伯父ラバンのもとでの労苦を許されました。

そして、最後には今日読んだ個所の「ヤボクの渡し」というところで、最後の一撃をヤコブという器に加えられました。

かなりのヒビがすでに入っていたことと思いますが、神様は器が壊れない程度にヒビを加えられました。

その出来上がりつつある作品はヒビのある、湯呑であればお茶がもれてしまうような器でしたが、神様のお力はヒビだらけの器のほうがいいのです。

ヤコブは、自我が徹底的に砕かれるという訓練を戴きました。

41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、
イスラエルの人々よ、恐れてはならない。
わたしはあなたを助ける。
あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。
41:15見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある
新しい打穀機とする。
あなたは山を打って、これを粉々にし、
丘をもみがらのようにする。イザヤ41:14-15.

感謝できないことをも感謝する

ですから、私たちはよいことには感謝するのはもちろんなのですが、感謝できない出来事をも感謝すべきなのです。

え?これが? そうなのです。どのようにしても感謝できないことが、私たちを虫けらなのだということに気づかせてくれる神様がお与えくださった思わしくない事柄の一つ一つなのです。

ヤコブはその一つ一つと戦いました。

しかし、彼は、いまや神とすら戦い抜きました。

聖書は彼に勝ったと言ってくれていますが、実際は負けました。

でも負けたことで彼は勝ったのです。どうしてそうなるのでしょうか。

答えは、創世記32:30です。

そこは「ペヌエル」という地名になりました。

ペヌエル、またはペニエルとは「神の御顔」と言う意味で、それは私たちのここまで固い自我が打ち砕かれる場所は祈りによるからなのです。 

その後も、ヤコブは失敗しました。

34章で娘のディナのことで、大変な事件に彼は巻き込まれます。

ヤコブたちはディナのことで、息子らが引き起こした大事件によって一族郎党なき者となるところだったのですが、神の恐れが敵意を持つ人たちの上に臨んで守られたとあります。

しかし、一切の原因は、父親としてのヤコブにありました。

父なる神さまの御心は、ベテルにとどまることでした。

しかしヤコブはそうしなかったのです。ベテルとは彼が若い時に神と初めて出会った地であり、常に彼が留まるべきところ~祭壇を築き直し直し、前進していく恵の場所だったのです。

私たちも日々、ベテルにとどまりましょう。

もし何かのことで困難を生活の中で感じているのなら

自分の人生において、生活面で、もし何か困難を感じていることはないでしょうか。もしそうであるなら、どうぞそのことゆえに、主に叫び求めるよう人になりますように。

ペヌエルで主の御顔を慕い求め、ベテルで祭壇を築き直される兄弟姉妹でありますように。

そのときに、神様は、お一人ひとりを両刃の鋭い打穀機として山々を踏みつけて、ミミズのような自分と思えたのに、前の前に立ちはだかる邪魔だった丘を平らにしてしまうようなものとして、御国の栄光のために用いて下さると信じます。

 ヤコブらはベテルに上りました。

身に着けていた偶像を取り払って、主に叫び求めるようにしました。

信仰が足りないからではないのです。努力が足りないからじゃないのです。

御顔を慕い求めていかないから、いつまでも同じところにとどまって悶々として苦しむだけでしょう。

どうか、ペヌエルの信仰、御顔を慕い求める私達でありますように。

またどうか、困難の時、ベテルに上り、そこにとどまり続けるお互いでありますように。

主イエス様の御名によって祝福してお祈りいたします。

ヤコブは人と戦い神と戦い勝ちました。

それは、ペヌエルをとおって、ベテルに上って祭壇を築き直したからです。

聖霊様は私たちの友です。

どうぞ、聖霊様を歓迎して、おもてなしして、祈りをもって交わりましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:32:22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 32:23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。 32:24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 32:25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。 32:26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。 32:27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。 32:28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。 32:29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。 32:30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。 32:31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえにびっこを引いていた。 32:32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。