聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「主に栄光を帰した人たち」

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今回は、ローマ書の残りのところ、16章のパウロの手紙の終わりのあいさつの部分から、共に学びましょう。

ローマ16章3~6.*1

同労者~主の栄光のための協力者

プリスカが女性の名前で、アクラが男性の名前です。ほかの個所では、アクラとプリスカとありますが、プリスカとアクラとなっている個所もあります。

奥さんのプリスカは、信仰においてのリーダーシップを旦那さん以上にとっていたためだと思われます。教会では霊的リーダーシップといい、「霊的」とは信仰的という意味でつかわれる教会用語です。聖書では、人の本質が霊的な存在だとしているからです。

パウロは二人のことを同労者と呼んでいます。

同労者とは、一つのことのために心を一にして協力し合う間柄のことを言います。言い換えると戦友と言えます。そこにはライバル心だとか競争心はありません。 

この二人は、主イエスに対する篤い信仰をもって主イエスキリストの御名のために献身していたので、ふたりは自分たちの身の危険をも顧みないで、大伝道者パウロのいのちを体を張って守ったことがあったようです。

14:7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 14:8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。ローマ 14:7,8.

クリスチャンとは、イエス様の十字架の贖いの血潮によって、永遠の滅びの淵から救われて、今は神から戴いた聖霊の神殿としての自分の体を、父なる神さまに捧げたものです。ですから、私たちクリスチャンの願いは自分の栄誉を求めることではなくて、イエス様の栄光を求める歩みへと変えられたものなのです。

ですから私たちは、この世の終わりの時代に、この二人のように、主のため、教会のために自分の時間や資源を捧げてお仕えするように導かれています。

もし、主のため教会のために自分の時間や資源を用いれば用いるほど、当然ながら、自分のための分は少なくなります。

しかしそれでいいのです。

なぜなら、そのように捧げていくならとき、このプリスカとアクラの二人のように、聖霊の力がさらに注がれていくからです。アーメン。

ぜひ、小さなところからでもいいので、主にお仕えする奉仕を始めていきましょう。

聖書によれば、私の主導権はすでにもう私のものではなく、私を滅びから贖うために十字架にかかり死なれ、三日目に甦られたわが主イエス様のものとされています。だからこそ、二人はパウロのために命を懸けることが出来ました。

もしも、二人がそうしていなかったのなら、伝道者パウロは、その日、早めに殉教を遂げていたかもしれません。

主は、主のしもべだからとういことで、水一杯で差し出すなら、確かな報いから漏れることはないと約束されました。二人が犠牲を払ったのは、パウロが主に用いられる伝道者パウロだったからです。

それは、二人の行為が後々、武勇伝となって言い伝えられるためではなく、それ以上のこと、つまり主の栄光のためだったのです。

二人目のあいさつ

使徒パウロはこのローマ書を締めくくるにあたって、二人の人物の名を挙げて、挨拶をしたためています。それはアジヤ地方で最初にイエス様を信じ受け入れて救われた人のことを書いています。

このアジヤ地方とは今日のトルコの国のあたりです。その地方で最初にクリスチャンになったエパネトという人のことを書いています。

なぜここでパウロはこの人のことを書いたのでしょうか。パウロは他の記事にも同じような挨拶文を書いています。そこを参照しましょう。

16:15兄弟たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた。 16:16どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に労する人々とに、従ってほしい。 16:17わたしは、ステパナとポルトナトとアカイコとがきてくれたのを喜んでいる。彼らはあなたがたの足りない所を満たし、 16:18わたしの心とあなたがたの心とを、安らかにしてくれた。こうした人々は、重んじなければならない。第一コリント 16:15-18.

ここに、ローマの手紙と似たようなことが書いています。アカヤという地方で最初に信仰を持ったステパナ家のことを書いています。アカヤ地方は今日のギリシャです。

パウロはそんなステパナ一家のことを、彼らの信仰姿勢のゆえに従うようにとか、重んじるように:ねぎらうようにと書いています。

その理由はかつて彼らは使徒パウロの伝道を熱心にサポートしてくれたからです。その一家の存在はパウロにとってどれほど大きな助けになったことでしょうか。またそんな彼らと心を一つにして労する人たちに従うようにとさえあり、他の三人の名前もあります。この別の3人はコリント教会に問題が生じたときに、その解決のために、当時エペソにいたパウロのところにわざわざ来てくれた三人でした。彼らは内実を事細かにパウロに伝え、共に解決のために祈りを捧げ、話し合いました。それがコリント教会の皆やパウロの気持ちを落ち着かせてくれました。

彼らはコリント教会のためにパウロと心を一つにして労した同労者たちです。

どうして彼らはそうしたのでしょうか。教会が問題から守られて、主イエス様の御国の前進のために、主の栄光のためにそうしたのです。

そして、パウロはそんな三人のことを、ねぎらうようにと伝えています。「よくやってくれましたね。」「お疲れさまでした!」と。

その一言が大きくモチベーションを上げますね!

ローマ書のエパネトという人の名前が挙げられた理由についても詳しくは書いていませんが、もしかすると同じような理由からだったのではないだろうか、と推察するのです。

使徒パウロを尊敬して従ったエパネト

多分このエパネトという人は、み言葉を携えて自分の住んでいるところまできて、教えてくれたパウロの話を聞き、そうだ、そうだ、本当だと福音を受け入れて、そしてパウロを尊敬して、パウロの指導に従った人だったと想像します。

私の愛するエパネト。それは使徒パウロのえり好みとかのことではなく、「最初に」その地方で救われて、とあるところから、彼の後に、こんどはさらにエパネトの姿勢に倣って信仰を持ち始めた人たちがいたはずです。

そして彼はその後引っ越して、今はローマにいる。

エパネトは、引っ越し先のローマでも続けて主と教会に仕えていた思われます。

パウロが彼の名前を出したのは、ローマの教会に少しでもいい影響が及んでほしいという願いからだったのです。

三人目のあいさつ~非常に労苦したマリヤ

「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」。

これ以上の詳しいことは書いていませんが、多分、マリヤという姉妹はローマ教会の草創期にかなり犠牲を払ったことのある信者さんの一人だったのでしょう。パウロはそのことを以前から、プリスカとアクラたちなどから聞きていたんですね。

以前、ある教会で活躍した牧師夫妻が退職されて、そのままその教会に残られたお話を聞きました。かつては声も大きく体も大きいその牧師さんは、いまは礼拝の中でもどこに座っているのかわからないほどだというのです。

そのマリヤという信者さんも、すでに年老いて、いまは数十年も前の教会のことなど全然知らない教会員たちが占めていた、そんな中で、今は年老いて会堂の隅で礼拝を捧げている、そんな人のことだったのではないかとある先生は推測しています。(榊原康夫)

そして、私たちの信仰がいまあるのは、自分一人で信仰が持てたのではなく、今回、このローマ16章の最後のあいさつのところであげられた人たちのような、かつて犠牲を払って主イエスに従い続けてきた人たちの信仰の上にあるということを、覚えたいというのです。

その恩恵の上に今の自分があるのだということを覚えるべきだと。

そして、またそういう人たちのいう話はよく聞かなければならないんですね。

なぜでしょうか。

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同労者たち こころに知恵のある人たち

いま通読個所で箴言を読んでいます。

箴言は恵の宝庫です。

箴言を読んでいて思うのですが、箴言とは正しいことは正しい。そこには叱責があり、指摘があり、知恵の心があります。どうやったら、主にかなう道を選んでいけるのかということについて事細かに指導されている書です。そして思うに、何と自分はこれまで愚かだったことだろうか、ということです。もっとあの時、先達のいう事をチャンとよく聞いておくべきだった、と。

なぜもっと心素に聞く耳を持たなかったんだろうと。

愚かで頑なで高ぶっていたので、だいぶ人生回り道、損をしてしまいました。

聴く耳を持つ人、それは賢い人です。

一例を見てみましょう。

18:2愚かな者は悟ることを喜ばず、
ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。
18:3悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、
不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。箴言 18:2
,3.

エス様に従わない人は、たとえどんなに周りから褒めそやされても最後には恥を見ることになるというのです。CSルイスが言うには、サタンは、まず第一に、イエス様を何とか信じさせないためにいろんなことをして妨害する。そしてそれに失敗すると、今度はできるだけ従わなくさせて、愚かにしようとする。そんなことを言ったと思います。

み言葉を知っているだけなら悪魔も知っているんですね。

み言葉は知識を増やすためではなく、従うためにあるものです。

指導に注意を払うひとは栄える箴言 16:20,21 NIV

あなたのおしえのうちにある奇しいことに私の目を開いてください。詩篇119:18 NIV

どうか聖書を読むとき、愚かな私の目を開いてください、そのうちにあるくすしいこと目を留めるようにしてくださいと祈ってから読むといいと思います。

「くすしい」とは、自分には理解しがたいこと、それくらい素晴らしいこと、という意味です。

それは、生まれながらの私にはおろかなことに見える、つまらなく思えるのです。聖霊なる神のお働きによらなければ、だれも悟れないし、従えません。

そこには世と肉とサタンの恐るべき惑わしがあるからです。目には覆いがかけられてみことばのくすしいこと(wonderful)に気づけなくさせられているからです。

ああ、神様!

わが目を開いてみ言葉にある主に御旨に気づかせて下さり、悟らせて下さり、従わせてください。そう祈りましょう。

教会は2000年間、そのような主に従う人たちによって建てられてきました。

どうか、今度は私たちがそのバトンをとって、主にあって尊敬され、ほかの人に従っていただけるようなものにならせて頂きましょう。

これは主の栄光に係るお話です。

だれかが褒めそやされて、栄誉を受けるというお話ではありません。

主に一切の栄誉をお返ししましょう。

ご一緒に教会を建て上げていきましょう。

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:16:3キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。 16:4彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。 16:5また、彼らの家の教会にも、よろしく。わたしの愛するエパネトに、よろしく言ってほしい。彼は、キリストにささげられたアジヤの初穂である。 16:6あなたがたのために一方ならず労苦したマリヤに、よろしく言ってほしい。