聖書のある暮らし

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「フィベの献身と奉仕」

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この聖書の記事に婦人執事フィベという人が出てきます。

今回はここから、教会の中に神さまがお立てになった婦人執事という立場について、また終末のこの時に私たちはどう歩むべきかということについて、ご一緒に学びましょう。

ローマ16:1,2*1.

ギリシャ語で「執事」は、しもべ、奉仕する人という意味です。

1節使徒パウロはフィベを紹介しています。その理由は、このローマ人への手紙が、フィベによってローマまで届けられたからだと言われています。

当時は、今のような郵便配達はなく、だれか信頼できる人に、旅の途中に立ち寄ってもらっては届けるのが慣わしでした。

ここでわざわざパウロがフィベを紹介しているところを見れば、十分ありがちな説かと思います。

親しみを込めた紹介 

パウロはここで短くはありますがこのフィベを親しみをもって紹介しています。

「私たちの姉妹であるフィベ」初代教会には、執事という役員たちがいて、当時の監督:今でいえば牧師らとともに教会の務めをする立場の人たちでした。

では、執事というのはどういう仕事を教会の中でしていたのでしょうか。

女執事ドルカスのこと

9:36ヨッパにタビタ(これを訳すと、ドルカス、すなわち、かもしか)という女弟子がいた。数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。 9:37ところが、そのころ病気になって死んだので、人々はそのからだを洗って、屋上の間に安置した。 9:38ルダはヨッパに近かったので、弟子たちはペテロがルダにきていると聞き、ふたりの者を彼のもとにやって、「どうぞ、早くこちらにおいで下さい」と頼んだ。 9:39そこでペテロは立って、ふたりの者に連れられてきた。彼が着くとすぐ、屋上の間に案内された。すると、やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて、ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を、泣きながら見せるのであった。使徒 9:36-39.

ここにドルカスという女の人が出てきます。

どういうお立場の人であったのか、肩書とかは書いていませんが、この亡くなったドルカスのまわりには、やもめのグループの信者さんたちがいて泣きながら彼女が作ってくれた下着や上着をペテロに見せたとあります。

ここから、彼女が、その教会でリーダー的な存在だったことがわかります。

想像できることは、彼女はいわばヨッパ(ヤファ)の教会の婦人執事的な存在で、彼女を慕って教会に出入りしていた方々がいたという事です。やもめとありますが、旦那さんを亡くされたり、離婚したり、または結婚をしない女の人たちがドルカスと一緒にヨッパの教会で奉仕していたと考えられます。

フィベとはどういう人だったか

パウロはフィベのことを私たちの姉妹フィベと呼んでいます。このフィベのことをパウロは「この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です」と。独り者だったパウロやその仲間の伝道者たちを、フィベはいろんな面で支えていたのではないでしょうか。またパウロたち以外にも、多くの必要を抱えていた人たちの面倒を見てあげていたと思います。

また、このフィベというひとは、独身者だったのかもしれません。

パウロは、コリント書で、クリスチャンは、できれば独身でいたほうがいいと勧めている個所があります。その理由は、パウロ自身もそうでしたが、独身でいるほうが、祈ったり、み言葉を学んだり、伝道に出掛けたり、主の務めに専心することができるからだというのです。

時は縮まっている。妻あるものは無いもののように。

7:28しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。 7:29兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、第一コリント 7:28,29.

この個所についてナビバイブルでは、だいたいこういうことを解説しています。

結婚は人生の諸問題の解決にはならない。逆に問題の種になりうる。大事なことはお互いの献身にある。既婚、独身を問わず、自分の状態に満足し、キリストに精神を集中させること。Navi.BL.(要約)

パウロは結婚の経験があったのではないかと思われますが、どこでどうなったのかはわかりませんが、生涯を独身で過ごしたようです。それは、主の仕事に集中して励むためでした。

フィベ。主の務めに専念した人。

フィベは、ローマ人への手紙のような大事な手紙を託されたのですから、パウロからかなりの信頼を受けていたと思われます。彼女は、遠いローマまで何百キロもの旅をしました。当時の世界で、それほど遠くまでの旅はひとり者でなければできなかったようです。

「時は縮まっています。今からは、妻あるものは無いもののように‥‥。」

独身だった彼女は、与えられた時間な時間を使って「多くの人を助け、また私(パウロ)をも助け」ました。

時は縮まっていますとは主イエスの再臨の時が近づきつつあるという意味です。

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それぞれに与えられた立場がある

旧約聖書にでてくるヨブという人はあれこれ小賢しくうんちくを並べたてて、最後に神さまからお叱りを受けました。

特にヨブ記の終わりあたりに、ヨブのあずかり知らない大自然の数々についての描写があります。世界は唯一の神が創造されました。世界は神が創造された良いもので満ち満ちています。ヒグマの生態を現実には知ることはなくても、リアルタイムでその営みは継続されています。鹿の出産に立ち会ったこともありませんが、彼らはそれぞれ自立してファミリーで行動します。人間である私たちのあずかり知らない世界というものがあります。

しかし創造主は、ヨブの理解を超えた一切をご存じだと、ヨブ記は私たちに語り掛けています。

私たちの目先は近視眼

私たちは自分の身の境遇を思って嘆いたり、ひがんだり劣等感を持ってみたりしやすくあります。

しかし、このフィベたち婦人執事たちはどのように過ごしていたでしょうか。彼女たちは、あれこれとパウロたちや、助けが必要と思われる人たちの下支えしたり、大事な手紙を手に何キロも旅行したり、良いと思えること、祈りをもって御心にかなうと思われることに、自分にできる範囲内で、与えられた自由や金銭や時間を投資して、伝道者らを助け、教会を建て上げていくという務めを続けていたのです。

この地上でしかできない務め

彼女たちにはいろいろな事情があって、それぞれに自分の身の不幸を嘆くこともあったことと思います。しかし、聖書に名前は出てきませんが、このようなたくさんの婦人執事たち、独身者の奉仕者たちがいて、教会を支えて主にお仕えしていたのです。

私たちが天国へ行くときに、意外な褒美を主から戴くことがあるかもしれません。それは自分では覚えていなくても、あの時の援助、あのときの祈り、いっしょに協力してくれたこと。主は、兄姉らの愛の奉仕を決してお忘れにはならないと信じます。

今のこの時の縮まってきた(歴史の終わりの時)世界で、自分もキリストに余念なく身と心をお捧げしていきたいのです。

わたしたちはどうでしょうか。

賛美も、みことばも、天国に行ってもできますが、救霊のお働きだけは、この地上でしかできない務めです。

新年度を迎えて、私たちの教会に仕えて、奉仕して、救霊に務めに励みましょう。

お祈りを致します。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:

16:1ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介する。 16:2どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、またわたし自身の援助者でもあった。