聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「聖霊さまに委ねる一年」

主の年2023年 あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

韓国のチョーヨンギ先生は、人間とは目標を持つ機会である、と言いました。

機会と言う表現がキライなら、器であるとも言い換えたらいいですね。

目標が私たちの人生を生涯を作るんですね。

皆さんにとられては、昨年はどんな一年だったでしょうか。

病が癒されていくこと。

課題が解決していくこと。

必要なものが備えられていくこと。

今なお継続中の課題もあるかもしれません。

しかし、どうか、希望を告白して、期待を告白して、今年も前進があります。

癒しを感謝します。この一年、良いことが起こります。御国は前進します。

~の課題は必ず解決します!そう言い主の前に希望を言い表しましょう。

今回は、主の御手に私たちの一年をお委ねするにはどうしたらいいのかということについて、お分かちしたいと思います。

旧約聖書に出てくるヨシヤ王から、いつくかを学びましょう。

Ⅱ歴代誌34,35には、いかにしてヨシヤ王が国家を改革したかについて書かれています。

ヨシヤ王の歩みを見ながら、聖霊様にお委ねする一年にするための秘訣の幾つかを学びましょう。そして、この新年を豊かな一年にしていきましょう。

 

Ⅰ.偶像を粉砕する一年

34:1-7*1

偶像とは何でしょう。

それは、自分の力で人生を管理しようとすることを言います。

つまり自分の生活の中で、どうしても委ねきれないでいる課題や、困難を感じていることがあるなら、それは「神様、ちょっとわきに行っててください、自分でやりますから。」「自分の人生なんだから、自分の好きなようにします。あなたのご愛と恵みを感謝です。」「でも、あとは好きにします」

そう考えているサインなのです。

聖霊さまに自分を委ねきれないので、そうなるのです。

怒りやすかったり、生活に何だかメリハリのないダラダラ感だったり、何かを必要以上に貪ったりだとか。

こういった困ったことを抱えていませんか。

主はへりくだったものを救いをもって飾られる。詩篇149:4.NKJV

賛美のうたに♪  

いつもへりくだって♪

     いつもへりくだって、主のみことばを

     いつもへりくだって、みことばをきこう

          主はこころへりくだかれた人とともに

      主はへりくだった人とともに住む

「飾る」とは、キングジェームズ訳で ビューティファイ、装わせて下さるというのです。

主はへりくだるものを高慢の罪、その他の罪から守って下さいます。

ヨシヤ王のおじいさんにあたるマナセという王さまは偶像を拝んだために苦しい目に遭ったとき、へりくだって、悔い改めて、偶像を取り除いて、自分のしたいようにするという考えを捨てて、主を一心に礼拝するようになって、その後、祝されたことが書かれてあります。

心貧しく遜って御前に出る者に、主は聖霊を注がれて、罪の惑わしから守られるのです。

次に私たちが迎えたこの新しい一年をみ手に委ねるためには、

Ⅱ.イエス様が成し遂げられた救いのみ業のゆえに、いまの自分があることを認めることによって 

ヨシヤ王の改革の二番目にしたことは、荒れ放題だった主の宮を修復することでした。

34:8-13*2

主の宮とは何でしょうか。

それは、イエス様のことです。

新約聖書でイエス様が御自分のことを指して主の宮とおっしゃいました。

神殿とは、イエス様ご自身のことです。

まずそれは、庭があって、聖所があって、至聖所と続きます。

同時にその宮の構造は、私たちの礼拝の様をも表します。

賛美しつつ主の門に、賛美しつつ大庭に。

そして庭に入るとそこには青銅の祭壇があって、それはイエスキリストの全き贖いを示す型です。一切の手続きは終わってそこにあります。(レビ1~3)

それゆえ信じる者は感謝して主に近づき祈り、手は洗盤で日々洗い、汚れをすすぎます。イエスの血によります。香の壇では完全な執り成しの祈りがあり、私たちも聖霊様によってとりなし祈ります。

今度はこの世の光が届かない聖所に入ります。

私たちは主にあって祭司なので入れるのです。イエスの血で入れます。

そこには霊的生命の維持のためのパンと聖霊の七つの光があって、聖霊様との交わりがあります。

さらにはその向こうに至聖所であって、そこから御声が聞かれました。

聖所から至聖所に至る、私たちの礼拝の様をも表します。

霊的な意味ではそのすべてはイエスキリストの十字架の贖いのゆえに一切が整えられたものなのです。

ヨシヤ王たちは宮を修復再建しました。私たちはイエスキリスト様の贖いの御業を崇めて賛美するものです。ハレルヤ!

すべての恵みの手はずは整えられているのですから。

そして、そのあとのさらに良いことが続きます。

Ⅲ.献身

35:1-6*3

宮は整いました。

しかし、その規定に従って、そこで動物をほふったり、皮を剥いだりする専門家たちが必要でした。

今日この専門家は誰でしょう。

私たちイエス様を信じる一人ひとりのことです。

神様は愛をもって、ご自分に応答する人たちを必要としているのです。

アダムは創造されて、目を開くと麗しい一切が備えられていました。

彼は、毎日を喜んで一日目から、感謝して、主に仕えたことでしょう。

神様には夢があります。また私達にも夢があります。

その夢が一つとなって、具現化されて具体化されていくためには、レビ人、祭司らが必要不可欠なのです。

その良いものを分かち合っていく人たち、交わりが必要だったのです。

教会献身者が必要とされている

ペテロたちは教会が始まったとき、「み言葉を後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくない」と言いました。できるだけペテロたちが祈ったり、み言葉学んだり、宣べ伝えたりできるようにするための一つ一つの教会での奉仕は、み言葉を支えるための仕事なんですね。

しかし、実際のところ兄姉たちは、日ごとの糧を得るために日々忙しくお疲れです。そんな中で主に仕えていくのは、大変なことと思います。

犠牲が伴います。日曜日は体を休めていたい、ある意味では犠牲です。

財、労力、時間、関心事。いっさいを犠牲にして、主の宮である教会に仕えることは大変です。

聖歌隊のある教会で奉仕される兄姉らも大変でしょう。

コロナだというのに集まって練習に練習を重ね、努力を重ねて、そのためには時間や多くの資源が持っていかれる。

しかし、その一つ一つの捧げものは、ただみことばに仕えるというそのことのためなのです。

救いの贖いに与らせていただいたことへの感謝と感動の中で、そこから生じる礼拝行為の一つ一つが主への奉仕なのです。

もちろん、そこには五重の福音による三重の恵み・祝福が伴います。

そしてその目的は、愛の完成なんです。

最後に、イエス様が十字架にお付きになる数日前に、そんな愛の捧げものをお受けになって、主はそのあと十字架への道を勇気づけられて、進んでいかれました。

愛の発見・愛の試練・愛の完成

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

いつも晴れやかだったイエス様が浮かないお顔をされてベタニヤのマルタ、マリヤ、そして死から甦らせていただいたラザロがいるお家に来られました。

どうしてそんなお顔をされていたのかと言うと、その数日後には十字架が待っていたからです。

全人類の古今東西すべての人の罪を病と呪いを負われるのですから当然です。

そんなとき、マリヤが主のさびしいお顔に気づいて、自分の大切な財産を主の葬りのためにと言って高価な香油を主に捧げました。

当時ユダの社会では、香油をたくさん持ってお嫁に行くと歓迎されて、少ししかもっていないと軽蔑されるという習慣があったらしいのです。

マリヤにも夢があったでしょう。幸せな結婚。幸せな家庭。幸福な人生。

しかしマリヤはその結婚持参金、香油の壺を割って、主の頭と御足に注がれましたね。

福音書にはどう書いていありますか?

主は、その極度の緊張と思い重圧の中で、マリヤの行為に深い感動を覚えたことが書かれてありますね。主はマリヤの愛に感動されたのです。

マリヤは捧げる喜びでいっぱいでした。

マリヤの愛は完成へと引き上げられたからです。

愛が本当に価値あるものとなるために

私たちの人生が本当に価値あるものとなるためには、神の愛を受けて、私たちの愛を神にささげなければなりません。この世のすべてを失ったとしても、イエスの愛を受け、その愛に答えるという喜びがあるなら、私たちの人生はむなしくなりません。

お祈りしましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:34:1ヨシヤは八歳のとき王となり、エルサレムで三十一年の間世を治めた。 34:2彼は主の良しと見られることをなし、その父ダビデの道を歩んで、右にも左にも曲らなかった。 34:3彼はまだ若かったが、その治世の第八年に父ダビデの神を求めることを始め、その十二年には高き所、アシラ像、刻んだ像、鋳た像などを除いて、ユダとエルサレムを清めることを始め、 34:4もろもろのバアルの祭壇を、自分の前で打ちこわさせ、その上に立っていた香の祭壇を切り倒し、アシラ像、刻んだ像、鋳た像を打ち砕いて粉々にし、これらの像に犠牲をささげた者どもの墓の上にそれをまき散らし、 34:5祭司らの骨をそのもろもろの祭壇の上で焼き、こうしてユダとエルサレムを清めた。 34:6またマナセ、エフライム、シメオンおよびナフタリの荒れた町々にもこのようにし、 34:7もろもろの祭壇をこわし、アシラ像およびもろもろの刻んだ像を粉々に打ち砕き、イスラエル全国の香の祭壇をことごとく切り倒して、エルサレムに帰った。

*2:34:8ヨシヤはその治世の十八年に、国と宮とを清めた時、その神、主の宮を繕わせようと、アザリヤの子シャパン、町のつかさマアセヤおよびヨアハズの子史官ヨアをつかわした。 34:9彼らは大祭司ヒルキヤのもとへ行って、神の宮にはいった金を渡した。これは門を守るレビびとがマナセ、エフライムおよびその他のすべてのイスラエル、ならびにユダとベニヤミンのすべての人、およびエルサレムの住民の手から集めたものである。 34:10彼らはこれを主の宮を監督する職工らの手に渡したので、主の宮で働く職工らは、これを宮を繕い直すために支払った。 34:11すなわち、大工および建築者にこれを渡して、ユダの王たちが破った建物のために、切り石および骨組の材木を買わせ、梁材を整えさせた。 34:12その人々は忠実に仕事をした。その監督者はメラリの子孫であるレビびとヤハテとオバデヤ、およびコハテびとの子孫であるゼカリヤとメシュラムであって、工事をつかさどった。また楽器に巧みなレビびとがこれに伴った。 34:13彼らはまた荷を負う者を監督し、様々の仕事に働くすべての者をつかさどった。また他のレビびとは書記となり、役人となり、また門衛となった。

*3:35:1ヨシヤはエルサレムで主に過越の祭を行った。すなわち正月の十四日に過越の小羊をほふらせ、 35:2祭司にその職務をとり行わせ、彼らを励まして主の宮の務をさせ、 35:3また主の聖なる者となってすべてのイスラエルびとを教えるレビびとに言った、「あなたがたはイスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。再びこれを肩にになうに及ばない。あなたがたの神、主およびその民イスラエルに仕えなさい。 35:4あなたがたはイスラエルの王ダビデの書、およびその子ソロモンの書に基いて氏族にしたがい、その班によって、みずから備えをなし、 35:5あなたがたの兄弟である民の人々の氏族の区分にしたがって聖所に立ち、このためにレビびとの氏族の分が欠けることのないようにしなさい。 35:6あなたがたは過越の小羊をほふり、身を清め、あなたがたの兄弟のために備えをし、モーセが伝えた主の言葉にしたがって行いなさい」。