聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「主に捧げる一年」

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この年の最後は、少し変わったみ言葉から分かち合いたいと思います。

二月の十四日に過越の小羊をほふった。そこで祭司たちおよびレビびとはみずから恥じ、身を清めて主の宮に燔祭を携えて来た。歴代誌第二 30:15 

今年も一年が終わろうとしています。一年を振り返ってみてどうですか。どんな年でしたか。今年もコロナコロナで終わった感がしますね。

しかし、同時に主の再臨の時が近づいていることをも知らされた年でした。

携挙 

だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。第二テサロニケ 2:3

突然ですが、この聖書の個所の訳が間違っているようで、背教と訳されていることばには原語で「出る」という意味もあって、この世から「出国」するという解釈もできると言います。これまで伝統的に前後関係などから「背教」としか訳せなかったこの文節には、いわゆるキリスト教用語でいう「携挙」と訳すのが筋のようです。携挙とは、世の終わりにクリスチャンが生きたまま大患難の直前に天に挙げられることをいいます。その後、そのあと世界は経験したことのないような生き地獄を体験することになると聖書は預言してます。核戦争、巨大隕石の衝突、核の冬、人口削減、伝染病、暴力、暴動などなどです。

終末のシナリオは、最初に「携挙」、そして不法の人666の登場と続きます。先日、チャールズ皇太子が魅惑的な世界リーダー(666)についてコメントしたといいます。彼はすでにその人物と接触しているような言い方をしたとのことです。とすれば、すでに今の時代に666は、もうどこかにいるのかもしれません。

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この体は蛇のよう、足はクマのようで、ジャガーのようです。目は人の目で、羽が生えています。最近ある国から寄贈されたというこの像は黙示録の世の終わりに666と共に登場する「獣」のではないかと多くの人が噂しています。地球規模での伝染病やワクチン騒動や、LGBT問題や、世界経済の不安、気候問題などなどに、贖われるときが近づいたのではないでしょうか。ですから、私は個人的に、まとわりつく罪を捨てて、前に向かって前進しなければ、と教えられた年でした。

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。新約聖書へブル12:1. 

なぜ祭司、レビ人たちは恥じたのか?

このからみつく「まとわりつく罪」。冒頭に引用した旧約聖書の歴代誌のみことばでは、熱心なヒゼキヤの改革に、祭司、レビ人たちは用意ができていなかったというくだりです。ヒゼキヤ王の時代、リバイバルは民衆から始まったからです。そこで慌てて祭司レビ人たち、専門職の人たち、今でいえば、牧師伝道師らは準備ができていなかったので慌てたわけです。💦そんなことが書かれているのがこの個所なんですね。参照:Ⅱ歴代誌30章~

エス様を信じる人が、先のものに向かって身を伸ばす、前進していく、その先には「携挙」が迫っている。そのためには、こころを備える必要があります。

この祭司レビ人たちはなにやかやで、まだ準備が整っていませんでした。わたしたちはどうでしょうか。

こころを日ごとにあけわたす

私たちが前のものに向かって身を延ばすには、主に自分を明け渡す必要があります。

ヒゼキヤの宗教改革

旧約聖書に出てくるヒゼキヤは、若くして次期国王となって、まず最初に着手したのが、愚かな先代の王たちが、こともあろうに偶像を持ち込んだ、しかも主の神殿の本殿にまで持ち込んだ、それらいっさいを処分することでした。国に偶像が入ってきてからは祝福の雨は止まったままでした。

新約聖書の教えでは、今日、イエス様を信じる人は聖霊のお宮だとあります。主の十字架の尊い贖いの御血によって私たちは罪ゆるされて、神の子とせられ、印を押されるかのように、救いのために神の第三位の聖霊さまを頂いたのです。

しかし、私たちが自分の身を先のものに向かって伸ばすには、まとわりつく偶像を取り除かなければなりません。なぜなら、それがあると身を先に伸ばせないからです。

今日は主のものです

それが、なんであるのかを主に示していただいて、捨て去りましょう。

今日一日は誰のものですか。今日一日は十字架の血によって贖われた買い取られた主のものではありませんか。わたしのものではありません。日ごと主のものです、と言ってお返ししなければならない。それは素晴しいことです。素晴らしいわくわくするような事の始まりです。心のままにお捧げしますと言って、祈って、主に日々、明け渡しましょう。

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say hello!

私の趣味はラジオやテレビで英語を聞いたり、見たりすることでした。でも最近しなくなりました。やらないようにしているのではなく、興味の優先順位が変わったからです。○○篤史の建物探訪という番組や○○琢朗の家ものがたりとか、○○のグルメとか好きでよく見ていましたが、最近、見なくなりました。興味が低くなったからです。それはまた、携挙に備えるためです。

もう私はコロナのことで国外に行くことはなくなりましたし、天では主が備えて下さっている今よりは最低限もっともっと素晴らしい家が私を待っています。これまでの関心が薄れたのが原因です。わるいことではないですが、優先順位が見えてくると、自然とそうなって、それはもっとよりよく主に仕えるためでした。

 後ろのものを忘れ、先のものに向かって進むために

もうひとつお分かちしたのは、聖書の大切さでした。この歳で、あらためて聖書にたいする関心が強くされました。また愚かにもそれほど聖書をぞんざいに扱ってきたのだと思います。

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聖書を読め!

一昨日、I姉とお久しぶりでお電話でお話した時のことです。人生何が起こるかわからないですね、とお話しあったのですが、Iさんは高齢者です。いろいろと複雑なことが相絡まって、すこし気の毒な境遇に今あることをお話しされていました。病や生活環境のこと、無念だったことなどです。

ところが聖書のことに話が及ぶとがぜんお元気そうな口調になられて、いわく、毎朝しっかりと聖書を読んでおられるとのこと。某教団の通信大学で学ばれるほどのその方は、なによりも聖書を読むことが楽しいようです。入院中にも主治医に聖書をプレゼントされたこと、その後クリスチャンになられ、奥様ともども喜んでいること、以前お仕事で接触のあった若い方は今は大阪の教会で洗礼を受けてしっかりと信仰生活を過ごしていることなどにお話が及びました。

私は感謝しました。かつて母がそのIさんを信仰に導かれたときのことや、精神的などん底での救いを受けられたとこのことや、救いの実がさらに実となって連鎖していっていることをなど。決してウツになったりしないで、前向きなのだ、感謝、感謝のお交わりでした。

知恵、知識ではなく誠実さを

突然ですが、旧約聖書の大王だったソロモンは聖書を読んでいなかったのではないでしょうか。もし読んでいたらしなかったような政策のいくつかが散見されます。知恵はあっても知識はあっても、彼は、知恵よりも真実な心を求めるべきだったという注解者もいます。主への真実な心を養うのは聖書のことばを置いてほかにあるでしょうか。会話はキャッチボールであるように聖書から神様は私たちに日々個人的に語りかけてい下さっています。次に、祈りがあります。応答して神様に語り方けるからです。そのようにして、み言葉が生活の中で身近なものとなる時、毎日を主のものとしてお返ししていくことの大きな助けとなるからです。 

この一年、主のものでした。

来年もそれは主のものです。

どうか、私たちの残れる人生と思いを、考えと意志を、主にお捧げください。

お祈りします。

 

 

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