「ヨナの悔い改めと信仰」
今回はご一緒にヨナの生涯から、ヨナの信仰について学びましょう。
ヨナ2:10-3:2*1
ヨナ書とは
ヨナ書は、神様から与えられた使命に背いて逃げたヨナが、その後、絶体絶命のピンチに陥ったとき、悔い改めて、再び、神様から授かった仕事を全うしていくという内容です。
このヨナ書から私たちは、ヨナの悔い改めとヨナの祈りについて学ぶことが出来ます。
Ⅰ.ヨナの悔い改め
ヨナは神様の御心を拒みました。
なぜかというと、彼が神様から行くように言われたニネベという町は、自分たちに酷いことをする憎っくき敵国の首都だったからです。
彼らは時折やってきては、家財を奪ったり、畑を荒らしたり、仲間を勝手に捕虜にして連れ帰ったり、散々悪いことをしてきました。
ですから、もうすぐニネベの町に神の裁きがあって、あのソドムとゴモラのように壊滅する。それを聞いたとき、ヨナは喜びました。
ざまあみろというわけですね。
だから、ヨナは、時間稼ぎをして逃げれば、そのうちニネベは滅びる、しめしめと言うわけです。
ヨナは船に乗って、このニネベとは正反対のタルシシュという町に向かって逃げました。
ところが、神様は、大きな魚を用意されてヨナを飲み込ませました。
ヨナが神様に背を向けて逃げたからです。
実際にあったヨナのような出来事
18世紀イギリスの資料に大きなクジラが船員を丸ごと飲み込んだという事件があります。大砲でその大きな魚を撃って捕らえてみると中から生きたまま船員が出てきたそうです。
また19世紀の南大西洋でも同じようなことがあったそうです。
飲み込まれた船員は、なんと丸二日その大魚の中にいたというのです。
体中が胃液で黄色くなっていたそうですが。
2:2~4を読みましょう。
2:1ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、 2:2言った、
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、
主はわたしに答えられた。
わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、
あなたはわたしの声を聞かれた。
2:3あなたはわたしを淵の中、
海のまん中に投げ入れられた。
大水はわたしをめぐり、
あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
2:4わたしは言った、
『わたしはあなたの前から追われてしまった、
どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。
死の苦しみの中で、彼は必死になって祈りました。
人は、父なる神さまの御心に従わず、自分勝手な道に向かって進もうとするとき、患難と絶望の中に陥ることがあります。
あなたは、あなたの戒めから迷い出る
高ぶる者、のろわれた者を責められます。詩篇119:21
この「責められる」(新改訳では「お叱りになる」)とありますが、これは感謝なことではありせんか。
このお叱りがなかったら事態はもっと悪い方向へと向かっていたことでしょう。試練や困難があるところには、神様の御心もそこにあるのです。
私たちは、ややもすると直ぐに、辛い状況下で神様は自分に意地悪をしているのだろうか、などと言って神様のご愛を疑いやすくある者です。
先日も新聞の配達をしていたら、急に雨が降り出して、カッパもないし、新聞も濡れてしまうし、困りました。
そして何とか配り終えて家に入った途端ピタッと雨が止んだのです。(笑い)
神様は意地悪をされているのだろうか?
そんな思いがしてきました。
しかし、直ぐに思い直して、きっと神さまはこの雨を通して私の信仰を訓練されておられるのだと考えて、主を賛美することにしました。
私たちは、ささいなことで、神様に文句を言ってみたり、自分のせいで事が思わしくなくなったのを簡単に神様のせいにして、神がいるのか?などと言って神を恨んだりする。いけないことです。
もし、困難の中で、悔い改めて、どこが間違っていたのだろうか?
考えてみて、そして初めの行いに立ち戻るなら、4節にあるように、その祈りはどん底の状況下からでも、父なる神さまはお聞きくださることが分かります。
S兄のこと
先日久しぶりにS兄から連絡がありました。
そちらに今度から献金を送りたいので口座番号を教えてほしいとのことでした。私はすぐに「信仰は行いの面があるので、S兄のそのような姿勢は今後、豊かに祝福されていくと思います」と返事を書きました。
S兄は、いろいろな所を潜って、通られて、しかし今は、母教会に戻ってこられたんですね。ハレルヤでした。
あるひとはわずかな捧げものを惜しんで自らの救いを失います。
しかし、ある人は初めの行いに立ち戻って救いを得るのです。
黙示録3章のサルデスの教会への警告
黙示録3章に、悔い改めないのなら、その人の名前がいのちの書から消し去られることがあり得るとの個所があります。黙示録3:1-5
これは大変なことです。
これは厳粛な個所です。
カルバン主義だとか、アルミニウス主義だとか言っている場合ではありません。ああ、これはほんとうに大変なことが起こり得るのだなあと思って、先日、そこを読んでいました。
私たちの側では、自分の救いを全うする責任があるのですね。
もし、わずかな捧げものを惜しむようなことがあるならば、その場合、その人にとっては、救いとはそんなものでしかないことになるからです。
悔い改めとは何か
「聖なる宮を仰ぎ見たいのです」。4節。
ヨナは悔い改めました。
悔い改めとは何でしょうか。
それは初めの行いに戻るということでもあります。
ただ口だけ、悔い改めますと言ってもそれは悔い改めではありません。
S兄のように最初の行いをするということです。
もし、私たちが誰かに親切なことをしてあげたのに、その人がなんとも思わず、そのままプイッと行ってしまったらどうでしょう。
傷ついたような、取り残されたような悲しいような思いがします。
私たちが行いをもって主を愛するということは、主を礼拝するということは、とても大切です。
お心信者
私の心はいつもあの会堂の定位置にあって、いつも私は主を礼拝しています。
主よ、今日は礼拝には行けませんが、こうして静かな湖でゆったりと釣竿をたらして主を礼拝しております。
これは俗にいうお心信者ですね。
悔い改めとは悔い改めにふさわしい行動と実を結ぶことです。
もちろん、最近は衛星中継とかスマホとかもあって感謝です。
時間をとることが大切です。そして来れるならコロナをも恐れないで、集まって主を礼拝しようではありませんか。
5~10節を読みましょう。
2:5水がわたしをめぐって魂にまでおよび、
淵はわたしを取り囲み、
海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
2:6わたしは地に下り、
地の貫の木はいつもわたしの上にあった。
しかしわが神、主よ、
あなたはわが命を穴から救いあげられた。
2:7わが魂がわたしのうちに弱っているとき、
わたしは主をおぼえ、
わたしの祈はあなたに至り、
あなたの聖なる宮に達した。
2:8むなしい偶像に心を寄せる者は、
そのまことの忠節を捨てる。
2:9しかしわたしは感謝の声をもって、
あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。
救は主にある」。2:10主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。
ヨナ2:5-10
ヨナが解放された理由
7節の終わりにも、私の祈りはあなたの聖なる宮に「達した」届いたと言っています。ヨナはその時、悔い改めの祈りが聞かれたことが分かったのです。
8節。そうです。偶像が心にあっては主にお仕えすることはできません。
それがなんであれ。怒りっぽい性質であれ、落胆しやすい性格であれ、あるいは財産かもしれないし、いつもいつも自分の心を悩ますものであれ考え方であれ、悪い習慣かもしれません。
ヨナは頑固者という自分をどうしても曲げないという曲がった性格が、彼の偶像でした。
9節。ヨナは「わたしの誓いを果たす」と祈りました。
悔い改めとは悔い改めにふさわしい行動と実を結ぶことです。
すると、その時、大魚はヨナを吐き出したのです!10節。
なぜこのときヨナは、苦境から解放されたのでしょうか。
ヨナが、自分に与えられていた使命に戻るためでした。
三日間かかって、大魚の腹の中で祈ったとき、ヨナは、タルシシュに行くことを決心しました。それは彼が、自分が固執していた計画を捨てて、み心通りにニネベに行きますと決心した再献身の祈りをしたその直後だったのです。
Ⅱ.ヨナの信仰の祈りについて
ヨナが捧げた祈りから大切なことを私たちは学ぶことが出来ます。
①大胆な祈り
たといもろもろの君が座して、
わたしをそこなおうと図っても、
あなたのしもべは、あなたの定めを深く思います。
詩篇 119:23
ヨナを縛って逆巻く大波の中に投げ込んだ水夫らは、ただでさえ大波なのに、現れた大魚に飲み込まれたのを見たとき、ああヨナは死んだなと考えたはずです。
しかし、神様の願いとご計画は違いました。
神様の次の予定は、ヨナが奇蹟的に魚の口から出てきて、ニネベに行くことだったのです。
どうか、私たちが祈る時、「君主たちが座して語った」(新改訳)とありますが、神様のお力を常識的の考えて、祈り方を控えたり、神様に期待することを控えるような祈り方をしないようにしようではありませんか。
そのような祈りはただの独り言モノローグに陥りがちです。
きっとだめだろう。やっぱりだめだ。そんな思いを持ってはいけないんですね。
夢を持たせていただきましょう。
たとえ器は小さくても、身の丈に応じた大きな夢を持たせていただきましょう。
神様はすでに兄姉に、願いをお与えくださっているのではないかと思います。
捨ててしまったような、忘れてしまっていたような夢や願いはありませんか?
祈りは聖霊様との交わりの時間です。
だれかと一緒に過ごすに比例して、その人の考えていること、願いや、雰囲気にまでも、気が付くようになるのと似て、祈りは聖霊様との交わりです。
そこで私たちの夢と願いを確認しましょう。
庭の家チャペルのこと
この会堂も与えられて来年で10年になりますが、これは祈りの産物と言えます。主がまず願いをお与えくださって、それから与えて下さった建物だからです。
感謝するのは、以前の会堂はいつもこの時期になると礼拝後、熱く沸かして淹れたお茶が、みるみる手のひらの中でぬるくなる、そんな会堂でした。
どんなにストーブを焚いても、吐く息は白い息でした。
今は、以前と比べるとサイズダウンして小さいですが、何と温かで、過ごしやすいのでしょうか。これも願いと夢から始まりました。
癒しの祈りも癒されつつあるのではなく、癒されたと信じて祈りましょう。
み言葉によって癒されました!そう信じて祈りましょう。
②誓いを果たす信仰 9節
ここでいう「誓い」とは何でしょうか。
感謝をもって、主にいけにえを捧げることです。
勇気を出して愛の行動に出ることを意味します。献身を意味します。
クリスチャンにとって、それは伝道することです。
このメッセージを準備しながら、私も、小さな証ですが、こころを決めました。
それは、今日、仕事でお店に行ったら、誰かに証しするということです。
しかし、トラクトを持ってくるのを忘れました。
でも、たとえトラクトがなくてもできるはずですから、お願いしますと祈りつつ行きました。
すると、長年お世話になった方が退職される方がいて、最初は少し立ち話をして、そのあともう一度言葉を交わすときがあって、「いつもあのところでやっていますから、どうか顔を出してくださいね」と言葉をかけることができました。
多分、その人と会うのは最後だったのかもしれません。でも感謝でした。
あの時かけられた一言が、一枚のトラクトからと言いますからね、、、。
聖霊さまは、私たちが心を決めたときに、その道を用意されるお方だということが分かりました。もし、伝道しようかな?できたらいいな?的な思いなら今まで何度も祈ったのになかなかチャンスがありませんでした。
でも、こころを決めたとき、備えられました。
捧げようと考えていながら先延ばしにしていなかったことはないでしょうか。
決めたことは、誠実に実行することです。
主から受けた恵に対して感謝をもって答えるとき、次のさらなる祝福に与ることが出来ます。
どうぞさらなる祝福を、祝福をもっともっと受けましょう。
困難や試練は祝福に変えられます。
お祈りしましょう。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:
第3章
3:1時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、 3:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。