「日ごとの糧を今日もお与えください」
今回は、主の祈りの三番目のところの「日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りについてご一緒に学びましょう。
- ある青年の失望
- 聖書が教えるスチュワードシップstewardship 金銭を扱う態度
- 神様は私たちに対してよいお方
- 捧げること、感謝、賛美の心の勝利
- 聖書が教える十一返金の祝福
- 捧げる人に与えられる霊的洞察力
- 熱烈な祈りができるようになりますように
マタイ6:11.*1
ある青年の失望
家の中に餌を置いておくと、猫は自分で餌を見つけたと考えるそうです。
猫が感謝するかどうかわかりませんが、しつけには、時間を決めてあげると、食べさせてもらっていると考えるようになるそうです。
信仰者も、当然とは思わないで、日ごとに必要なものを祈り求める姿勢が大切です。
福音書の中に、資産家の青年のお話が出てきます。
ある日彼はイエス様のところに出掛けて行って、尋ねました。「どうしたら永遠の命を受けられますか。」そういう彼は莫大な資産家だったようです。裕福な家に生まれ、明日の心配もなく、慈善活動も行っていた彼でした。しかし彼がそうあえて尋ねたところを見ると、多分、彼のなかに、死後の世界への備えが出来ている自信がなく、死ぬことを考えると怖かったのだと思います。
イエスは、その人をじっと見つめて、持ち物を全部売り払って貧しい人に施しをして、そうして裸一貫、私の後についてくるようにと言われたのです。
すると彼は大変失望して、暗い顔つきでその場を去ったのです。
イエスはここで何を仰りたかったのでしょうか。
お金が悪いということではなく、あなたの神はお金か、それとも人にすべてのものを与え、永遠の命までをも下さる神か、どちらですか? あなたに永遠の命を下さるのは、言うもでもなく、この神様です。あなたはそれを選びなさいと言われたのです。
しかし、この富める若い金持ちは、お金をあきらめることが出来なかったんですね。お金が彼の神だったからです。
私たちを幸せにするものは、金銭ではなく、すべてのものを備えて与えて下さる神様です。
日ごとの糧をお与えくださいと祈るためには、祈る側に必要な採るべき態度があります。
それは日ごとに、私という人間はむなしいものであり、自分で自分を養えない、弱く無力なものであるということを認めるこころの姿勢です。
それが分からないと、日ごとに神さまに必要なものを祈り求める必要性もわからず、さっきの猫のような思い違いに陥ってしまうのです。
聖書が教えるスチュワードシップstewardship 金銭を扱う態度
教会には献金という信仰者の務めの一つがあります。献金は神様への献身です。
それは神様に頼って生きているということを表わす、神への信頼の表明です。
自分が働いて儲けたお金だというかもしれませんが、よくよく考えると、金銭を手にする元の資本、すべての良いものは神様から戴いたものであることが分かります。健康、体力、知力、忍耐力、持久力、判断力等。これらは全部、神様が人にお与えくださったものばかりです。働けることを、環境を神様に感謝しながら利益を手にしなければなりません。
また献金とともに、神様に対する毎日の捧げる賛美の歌や、感謝の祈りも同じです。これらは神さまへの信頼の表明になることなのです。
神様は私たちに対してよいお方
先日通読個所を読んでいて、教えられたのですが、申命記の1章27節で、民がつぶやいたところがあります。彼らがこう言った個所です。
そして天幕でつぶやいて言った。『主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの国から導き出されたのだ。申命記 1:27
主は私たちを憎んでおられるので‥‥。彼らがそういうふうに主である神様のことを疑った原因は、多分、彼らが荒野で少しの困難を経験したからです。
彼らは自分たちの不信仰のためにカナンの地に入れなかったのに、それをモーセのせいにして、荒野で不自由な生活をしたからと言って不平不満の感情を抱き、面白くな~い思いを持ち続けたのです。
それに対するモーセの反論と諭し
モーセは彼らの勝手な言い分に、そうじゃない、神様はねんごろに母親が子を養うように導いてくれたではないか、道中足りないものは何一つなかったではないかと諭しました。
主は私たちにすべてのものを与えて楽しませて下さるお方なのです。アーメン。
この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、第一テモテ 6:17
しかし、彼らは、理解しようとしませんでした。
その理由は、彼らの神が、エジプトの滅びの淵から、奴隷の困難な状況から力づよく、あの恐ろしい強大なエジプトの軍隊をもやっつけて救い出して下さった神様のお力よりも、自分らの欲という偶像ーそれは彼らの神です。それが後に荒野で死んでいった人たちの神だったからです。
捧げること、感謝、賛美の心の勝利
私たちは目先のことですぐに短絡的に反応して、ものごとを判断しやすく、そのためささいなことで不安を感じたり、不満な感情を抱いたりしやすいのです。
ですから、聖書はいたるところで、神様に感謝を捧げること、賛美をお捧げすること、また情欲が断ち切られるために、献金をする恵について教えているのです。
聖書が教える十一返金の祝福
聖書は旧約聖書マラキ書で十一返金について教えています。
3:8人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。 3:9あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 3:10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。 3:11わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。 3:12こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。マラキ書 3:8-12.
神様に賛美と感謝を捧げること、そしてこの十一献金とその他の捧げものをもってお捧げするときに、主は、あなたを「幸せ者」(新改訳聖書訳)と呼ばれるようにするとあるのです。
十一返金とはなんでしょう。
それは神との贖いのイエス様の御血に与った人の、神様との契約の印です。
そしてよく読むとここに捧げる順番があります。
「わたしの倉」に携えてきてとあります。新改訳では「宝物蔵」と訳されています。それは今日の教会の財政のことを指しています
ですから自分の家の経済が恵まれる前にまず教会の財のために、捧げることを優先させる必要を説いています。
なぜ教会の財政なのでしょうか。
教会はキリストの体で、そこでは礼拝や様々な指導やお導きがあります。
そんな交わりにお互いに心を開いて、委ねあっていく、捧げあっていく、交わりに与っていくことがとても大切です。
そして、そこには、ただの口先だけとか、事務的なこと、機械的なことに終始するのではなく、主イエスの御体である教会の生きた有機的な交わりの中に与ることを意味しているからです。
ですからもし、神様が持てる力以上に、捧げるように自分を導いていることを感じるなら、お従いしましょう。
まず教会の財政が祝されることを願い、参与していく信仰です。
そのつぎに、その人の個人の財が祝されていくためです。
周りの人は、そのような人を見て、幸せ者、祝福された者と称(とな)えるようになることでしょう。 あなたは恵まれた人です。幸いな人です!と。
10:29イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 10:30必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。マルコ 10:29,30.
このような捧げる信仰を体得した人は、困難やつらい中にあってもため息だとか、恨みだとか、不満な思いに負けることをしなくなります。感謝をもって賛美をもって過ごすので、福音の前進が家庭の中にあるということでしょう。
神の導きやご支配を受け入れるなら、感謝と賛美が絶えることはありません。
捧げる人に与えられる霊的洞察力
そして、その人は聖霊さまの理解力が与えられるようになっていきます。
普通はもっと多くの快楽を!もっと多くの楽しいことを!死んだらそれで終わりさ!とその日暮らしに虚しさを一杯にするのですが、聖書にははっきりと死後にもう一つの世界があって人は死後、永遠の裁きか永遠の神のご支配する御国に入るのか、イエス様の御血によって決めなければならない、そして私はその救いの道を選びますと、信仰を明確にしていくのです。
日ごとの糧を今日もお与えください。
そのような正しい姿勢を持つ時に、神様に対して聞かれる祈りを私たちは捧げることが出来るのです。
その糧を求める祈りには忍耐をもって祈りがあります。
食べ物についての祈りだけはなくて、健康や魂の救いや、金銭もあります。
神様が私たちの心に置かれた願いがあって、最近祈っていなかったことがありますか。
それは聞かれるべき課題なのです。
どうぞ、もう一度、再献身して第一に神さまとの関係を立て直し、求める者に祝福を下さるお方であられることを信じましょう。
熱烈な祈りができるようになりますように
聖書中の人物で、あのゲラサ地方の狂人は解放された後、お供をしたいと主に願いました。彼にはなんとレギオンという大変な悪霊がたくさん住んでいたのです。かつては優しいお父さん、優しい良い人だったその人は悪霊につかれたため人格が変わり、サムソンの逆バージョンになってしまいました。この恐ろしい人を誰もとらえることはできず、鎖の綱さえ引きちぎってしまうほどの悪霊のパワーを発揮する恐ろしい人でした。
しかしイエス様の一言が、この恐るべき狂人を大勢の悪霊の支配から一瞬にして解放してしまわれたのです。
男は正気に返り、どうか、お供をさせて下さいとイエスに懇願しました。
その理由は、これほど素晴らしいことして下さった、こんな素晴らしいお方に一生ついていきたいと考えたからです。その熱心さは天からの熱心さでした。その願いは主が与えて下さった願いでした。
英語ではそれをファーバントプレイヤーといいます。fervant prayer 熱心な熱烈な祈りです。
そんな祈りができるようにならせていただきましょう。
答えられるまで粘り強く、決してあきらめることのない、答えを見るまで祈りましょう。
日ごとの糧を今日もお与えください。
その祈りはへりくだった、熱心な願いを嘆願なのです。
お祈りを致しましょう。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。