「カナン人を追い出せ」
「カナン人を追い出せ!」
今回は少し変わったタイトルで旧約聖書のヨシュア記からみことばをご一緒に学びましょう。
- 信仰生活の敗北・後退
- 困難があるからこそ、祈って従う。困難に立ち向かう
- 祈りが答えられない理由
- 恐れや疑う心を追い出しましょう
- 悪魔は生きていて、失望や落胆、疑う思いを投げ込む
- 悔い改めがいのちを救う
教会の通読個所はヨシュア記から士師記にはいっていますが、イスラエルはヨシュアを先頭に破竹の勢いでまたたく間に約束の地を占領していったことが書かれています。
しかし、実際は、そのところどころに、まだカナン人が居残っていたことも記されています。
神様はイスラエル人に、それらカナン人たちを、ことごとく追い払うように命じられましたが、実際のところ彼らはそうしませんでした。
その理由は敵が強力な「鉄の戦車」をもっていたからでした。
主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。士師記 1:19
敵の戦車部隊は、山坂では不利でした。
そのためイスラエルは山地だけをとることに甘んじたようです。
生活に便利な暮らし良い地をとることが出来なかったのです。
しかし、それは、後々の彼らの不名誉と不幸せな信仰生活の原因となりました。
今日ご一緒に開いたところを見ると、ヨセフ族の言い分があって、彼らは自分たちの領土が狭いと言ってヨシュアに文句を言ったわけです。
しかしそれに対してヨシュアはこう答えました。17~18節。
「敵は戦車をもっているという、だがたとえ彼らが鉄の戦車をもっていても、神の御心はあなた方が進んで行って約束の領地を勝ち取ることなのだから、行ってやり遂げなさい」というものでした。
「あなた方の領土が狭いのは私のせいではない。それは、あなた方が行ってそこを攻め取ろうとしないからだ」と言ったのです。
信仰生活の敗北・後退
私たちは、一度は燃える心をもって内にビジョンを燃やし、家族や身内の救いを祈り始めます。
しかし祈ってもすぐに答えがないので、ややもすると最初のように祈る勇気を失ってしまいがちです。
しかし、今日のヨシュアのことばによれば、何とあったでしょうか。
「困難があるから、挑戦しなさい、前進しなさい。」でした。
困難があるからこそ、祈って従う。困難に立ち向かう
聖書では、困難があるときは挑戦となる。そう教えています。
なかなか祈りが答えがないときは、諦めないでもっと祈ってみなさいと教えています。
ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けたので、わたしは、彼をペルシャの国の君と共に、そこに残しておき、ダニエル書 10:13
旧約聖書に出てくるダニエルという人は、一つの課題のために三週間祈り続けました。もしかするとダニエルだけではなく、ほかに仲間がいて、一緒に同じ課題について祈り始めたのかもしれません。
一週間が経ちました。答えはありませんでした。
二週間が経ちました。答えはありませんでした。
そのうちに一緒に祈り始めた仲間は一人減り、二人減り。
最後まで祈り続けたのはダニエル一人だけだったかもしれません。
祈りが答えられない理由
このダニエル書は、私たちに祈りが答えられない、あるいは、答えられないかのように見える理由について述べています。
まるで神様は無関心を装っておられるかのようでした。
祈りが答えられなかったその原因はなんでしょう。
悪しき者が三週間もの間、祈りの答えを妨害していたからなのです!
「ペルシャの君が二十一日間、私に向かって立っていた」と御使いのガブリエルが言うのです。このペルシャの君とは力ある悪霊のことではないでしょうか。
私たちは、ここに、肉の目には見ることのできない霊的な世界での力関係があることをうかがい知ることが出来ます。
しかももっと驚くべきことは、
すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。ダニエル書 10:12
傍線を引いたところ、実は、すでに祈り始めたその日から祈りは聞かれていたというのです!
「二、三回祈って、答えが来ないからと退くような心の姿勢では、勝利することが出来ません。ダニエルが祈り続けたように、あなたも忍耐をもって祈り続けるなら、愛の神を体験することが出来るのです。」チョー・ヨンギ師
ですからこのことに勇気を戴いて、私たちも祈り続けましょう。
恐れや疑う心を追い出しましょう
3:10この悪しき民はわたしの言葉を聞くことを拒み、自分の心を強情にして歩み、また他の神々に従ってこれに仕え、これを拝んでいる。彼らはこの帯のように、なんの役にも立たなくなる」。 13:11主は言われる、「帯が人の腰に着くように、イスラエルのすべての家とユダのすべての家とをわたしに着かせ、これをわたしの民とし、名とし、誉とし、栄えとしようとした。しかし彼らは聞き従おうともしなかった」。エレミヤ書 13:10,11.
前回は、主の祈りの六番目・最後のところから、主が御自分の御国・力・栄光を私たちと分かち合おうとされていることを学びました。
ここでも、「彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだった」とあります。(新改訳)
しかし彼らが、その栄誉に与れなかった原因は、彼らが主のみこころに聞き従わなかったからでした。
10節。「この悪しき民はわたしの言葉を聞くことを拒み、自分の心を強情にして歩み、また他の神々に従ってこれに仕え、これを拝んでいる。彼らはこの帯のように、なんの役にも立たなくなる」。
イスラエルは、鉄の戦車を恐れる思いから、カナン人を追い出すことをしないで、カナン人たちと仲良く共存していくことを考えるようになりました。
主が命じられたようにその地を占領することをしませんでした。
カナン人との間で、自分たちの息子娘を与え、またカナン人の娘息子をめとるようになっていきました。
しかしそれは、イスラエル人の中に多くの偶像を取り入れてしまう要因となりました。彼らはカナン人たちの生活習慣を優先するようになって、せっかく神様が語られ、用意されていた最善のご計画を取り逃がしてしまいました。
人間中心の思考や思想が自分たちの生活を支配するようになりました。
そのためイスラエルは、主が用意されていた繁栄、平安、喜び、収穫、安全、健康を失い、悲劇の流浪の民族となっていったのです。
悪魔は生きていて、失望や落胆、疑う思いを投げ込む
悪魔は今もなお生きています。そして、信じる者に心の中に、恐れを投げ込み、物事がうまくいかないのを見て失望や落胆の心を生じさせ、主へのお約束への不信頼、疑う思いをエペソ書の6章のようにぶつけてきます。
次第に私たちの思いは妥協をし始め、そうかなあ~あまり熱心すぎないほうがいいよな~となって、家族の救いや友人の救いを前ほどは祈らなくなってしまうのです。主が占領するために用意しておられた約束の地を勝ち取る祈りをしなくなってしまうのです。
悔い改めがいのちを救う
もし今日、私たちの霊性がそのようであるのなら、どうぞ悔い改めて、ああ、神様お赦し下さい、私はあなたが私に対して持ってられた信仰のビジョンや、備えて下さっていた祝福に対して、もう一度わたしの信仰を「リバイブ」してくださいと言って祈りましょう!
カナン人を私たちの信仰生活から追い出しましょう!
カナン人が私たちの生活に入り込んでくるのではなく、私たちが地の塩、世の光となって出ていくことが出来ますように!
そのためには、日ごとにイエスの血潮の胸当てをつけ、真理の帯を締めて、信仰の備えの靴を履いて、信仰の 大盾をかざし、御霊の与えるみ言葉の剣をと救いの望みのカブトを被って備えましょう。
ヨシュアがヨセフ族に言いました。
彼らが鉄の戦車をもっているのだから、あなたがたは約束の地を攻め取らなければならないと。
困難があるという事は、それに立ち向かいなさいという意味なのです。
よく、「なぜ山に登るのか。山がそこにあるからだ。」と言います。
「なぜ困難がそこにあるのか。祈りの答えがないかのように見えることがあるのか?」
その答えこそは、「はい、その理由は、答えられないかのように見える困難があるから、私たちは祈るのです。」それに尽きます。
どうぞ、主が働いて下さって、すべてを益に変えて下さるのを見るまで、主の備えて下さっているすべての祝福を見るまで得るまで、祈り続けましょう。
そして、御国・力・栄光を分かち合って戴きましょう。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
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