聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「困難の向こうにあるもの」

先日のこと。免許証がなくなって焦りました。💦

探しても探しても見つからないのです。

もう夜も遅くなってきて、いつもの就寝時間を一時間以上も過ぎてしまって、今週は忙しいスケジュールで十分な睡眠が必要だというのに、なんでこんなことに!?となってしまいました。

そうだ!こんなときはすべてに優る主を賛美しなくては!と思い直して両手を挙げて主を賛美しました

すると日中使ったピンク色のペンケースのことを思い出して、そういえばあのとき‥‥。行ってみるとありました!

信仰生活は、楽しく素晴らしいものです。

でも、いつも良いことばかりとは限りません。

5:16いつも喜んでいなさい。 5:17絶えず祈りなさい。 5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。第一テサロニケ 5:16-18.

困難がある理由・困難の目的

あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。ピリピ1:29.

困難な経験やつらい出来事は、私たちを試し、私たちが本当は何を求めていたのかと心探らせ、動機を潔め、神と人の栄光と繁栄のために、私たちを作り変えます。

ものごとが案外うまくいっているときは感謝感謝なのですが、ひとたび雲行きが怪しくなってくると、えっ?神様どうして? いつも祈っているのに。。。となってしまうのです。

では、どうして時々難しいことが私たちの周囲には起こるのでしょうか。

もう一度言いますが、理由は、信仰者のこころが砕かれて、人間中心主義の信仰から、神中心の信仰へと私たちが変えられていくためにあります。

聖書の中にはそのような困難な状況を潜った人たちの例がたくさん出てきます。

アブラハムヤコブや、ヨセフにモーセなどなどです。

彼らは共通して悩みの炉を通るという時期を潜らされ、次第に練られ、こころ折れて、ついには神のご目的の実現の器へと変化されていきました。

そしてついには自分の人生の一切を十字架の贖いによって滅びから買い戻して下さったお方のものとして、御手に自分をお返ししていくようになりました。

信仰の父アブラハムヤコブ、ヨセフらの場合

たとえば旧約聖書に出てくるアブラハムは、なんと人生の四分の一、25年間にも亘って訓練を受け、最後には年老いてやっと与えらえた一人子さえも、いけにえとして捧げるという試練にも耐え忍び、従いました。主は捧げたものをお返しになられました。子は無事でした。しかし、その試練を通じてのちのイスラエル民族の誕生を見ることになりました。

ヤコブという人はずるい人でした。

そのため不興を買った彼は何度も殺されそうになりました。

しかし、最後に彼は天使と格闘して、自我が折れてしまいました。

ヨセフは正しい良い人でしたが、多少高慢なところがあったため、不実の罪を着せられ、その結果人生の底辺をひたすらはうような日々を過ごしました。

うぬぼれや虚栄心が砕かれた彼は、ついにはかつて自分を奴隷として売り飛ばした兄たちを心の底から赦すことができるようになり、彼らを飢饉から救いました。

また、モーセがいました。

彼の将来は当時の超大国エジプトの総理大臣、または次期国王になるような人でしたが、自分の力で同族イスラエル奴隷制から救おうとして失敗し、自分の命を救うために彼は裸一貫で国外に逃亡せざるを得なくなりました。

その後、彼は齢80になるまで山で羊を飼う仕事を続け、嗚呼これでオレの人生も終わりだなと呟いていたことでしょう。

しかしその時、彼は山で不思議な燃える柴の木を見たのです。

そのとき、すでに枯れ木状態のおじいさんになっていた彼の上に神のお力がお下りになって、なんと彼はその歳から同胞の救いをもとめて力ある働きをする人に変えられていきました。

人を誹謗中傷するkさんが祈りの人の変えられたお話

先日、S姉が牧師館を訪ねて下さって、いろいろとこれまでのことをお話し下さいました。S姉の旦那さんKさんは、昔は、自分の非を認めるようなひとではありませんでした。しかし、今では、辛いところを通ったことによって、すっかり神の前にも人の前にも自分の欠けや至らなさを認めてへりくだることができる人に変えられたのです。

彼は、いまや日夜ベッドの上で祈りの日々を送る人に変えられたそうです。

ハレルヤ!☀

かつてはことあるごとになんだあいつは!と、人の短所をあげつらっては非難していたようなところがあったのに、いまでは、ごめんなさい、こんなこと言えるような自分ではないのです。わたしこそが、かつては至らない、人に迷惑をかけ続けてきたようなものでした。お赦しくださいと、逆に事あるごとにそう祈る人に変えられたのだそうです。これは聖霊さまのお働きです。

ですから皆さん、困難な状況は、人を救い、また私たちの信仰を成長させてくれるチャンスなのだということを忘れないようにしましょう。

困難だけを見て、神様は僕や私のことがキライだからこうなるんだと、決して思ってはいけません。逆に、困難があるということは、またあったということは、神様が私たちを大切なものとして認めて下さっているからなのです。

12:8だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。へブル12:4-9

訓練によって、それまで当たり前のように、自分のしたいようにして何が悪いと身勝手に生きてきたことそのものが罪びとの姿だったのだということに気づかされて、人を傷つけ悪臭を放ってきたようなものだったのが、そしてそのままでは決して神にも人にも受け入れてなど戴けなかったものだったのが、「失礼しました、自分のしたいようにではなく、どうぞ聖霊さまの願いのままにお従い致します」と言って、自分を明け渡す者に変えらえていくのです。

自我が折れて弱くなった人を通して働かれる神さま

41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、
イスラエルの人々よ、恐れてはならない。
わたしはあなたを助ける。
あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。
41:15見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある
新しい打穀機とする。
あなたは山を打って、これを粉々にし、
丘をもみがらのようにする。イザヤ書 41:14
,15.

なぜ神様はヤコブをそう呼んだのでしょうか。彼はイスラエル族長の二代目です。

その理由は、ヤコブという人は詐欺師だったからです。

叔父の財産を奪い取り、淫蕩に走り、醜悪な人間でした。しかし、彼はある川のそばで、転機が訪れたとき、一晩中天使と格闘して自我が折れてしまいました。

そうして、虫けらみたいな人になってしまったのです。

虫けらみたいに弱くなってしまったので、そんな弱くなったヤコブだからこそ、神様は彼を自由に用いることが出来るようになって、今度は鋭い打穀機となって、あらゆる難題や課題が迫ってきても、粉々に砕いてしまえるほどの、力ある人生を送れるようになる、また変えられていくという意味です。

人生の祝福は、いつでも問題とともにやってくるという事実を忘れていはいけない。祝福は一人ではやってこない。問題は祝福を伴ってやってくるからだ。

困難があるということは、必ずその向こうに、すぐ近くに神さまの祝福も近づいてきているということなのです。

どうぞ、困難の中でこそ、主を賛美しましょう。

「困難の向こうにあるもの」~それは神の祝福です。お祈りしましょう。

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。