「信仰の飛躍」
師匠のエリヤと弟子のエリシャのふたりは、聖書に出てくる象徴的な四つの地を経めぐり歩きました。それは弟子エリシャの信仰の飛躍と成長のためでした。
今回は、列王記から「信仰の飛躍」と題して、ご一緒に聖書を学びましょう。
Ⅱ列王記2章1~14節*1
ギルガルの地という信仰
1節。ギルガルの地は、聖書の中に出てくるとても大事な場所です。
そこは、かつてイスラエル人たちがエジプトを脱出してのち、流れのはやい急流ヨルダン川を奇蹟的な方法で横断し、渡り終えた川岸の向こうに彼らが祭壇を築いて礼拝を捧げた場所でした。
その地に彼らは渡り終えた川底から12の石を拾い上げて、岸に記念の塔を建てました。
彼らはなぜそんなところにモニュメントを建てたのでしょうか。
それは、後の世代の子らがそれを見て「これはなんですか?」と尋ねた時、「これは、かつて主なる神様が奇跡をもって、川の流れをせき止めて、12部族を安全に渡らせて下さったのだよ」と教えるためのものでした。
聖書の中には、神のみことばによるお約束が私たちのために数多く書かれています。そこにしたためられていることは、神が人に対してなされたことのたくさんの出来事、記録の数々です。
ギルガルの信仰とはなんでしょうか。
それは、神が人にして下さったことの記録に目を留めつつ歩む人生~そしてそれはこれから起こることに対する約束でもあります。
イエス様を信じる人の信仰とその信仰生活は、人間中心の考え方によるものではなく、神中心の信仰~み言葉に基づいて、建て上げられていきます。聖書です。
ですから、ギルガルの信仰とは、そしてギルガルとは、信じた私たちは神の栄光のために歩むように召しだされ救いを頂いたものであることを覚えつつ歩む歩みであり、そしてそのような信仰姿勢は今も建て上げられつつある最中にあるということの証です。神さまに栄光がありますように。ハレルヤ!
ベテルの信仰
次に二人が向かった先は、ベテルでした。
それは次の信仰の成長の段階でした。
ベテルは、かつて「信仰の父」と呼ばれたアブラハムがカナンの地を目指してカルデヤのウル(現在のイラクあたり)から出てきたとき、彼が一番最初に祭壇を築いた場所です。
またそこは、アブラハムの息子ヤコブも兄エサウの復讐を恐れて逃げたとき、夢の中で、ここは天国の銀座か?と思えるような賑やかさ~天に掛かる梯子があって、そこを天使らが上り下りしている、天と地の交通の地でした。
彼もまた、そこに祭壇を築いて主なる神を礼拝しました。
そして神との契約関係に自分があることを意識して、全収入の10分の一を捧げる約束をしました。
ベテルとは古来、人と神とのかかわりにおける重要な地点でした。
今は、イエスキリストの十字架の贖いという神との契約関係の中に私たちは与っています。
御子イエスが2000年まえ、十字架上で流された贖いの血をもって、罪の赦しと、永遠の命の約束にかかわる大事な契約関係に、私たちは与っているのです。
アブラハム、ヤコブが神との特別な関係を意識してそこに祭壇を築いたように今日、祭壇を築くこと。それは神さまとの特別な関係に自分が与っていることを感謝してお返しする礼拝のことです。
ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。新約聖書へブル10:25.
世界の終わりの日が近づきました。クリスチャンは、携挙に備えて、日曜日ごとに主を礼拝するという祭壇をおろそかにせず、礼拝出席に励まねばなりません。日曜日は、主の復活の記念の日です。伝統的に、歴史的に、教会はこの日を礼拝の日として定めてきました。これは聖書の教えでもあります。
ですからこの日をおそろかにしたり、遊びに行ったり、仕事に行ったりしないようにして、極力、生ける神さまを礼拝するように励みましょう。
そうすることで、信じる私たちは、主なる神さまとの贖いの御血の契約関係にあることを恵によって何度も何度も改めて、覚えなおすことが出来ます。ハレルヤ!聖日~日曜日はそんな素晴らしい日です。
そのような姿勢で歩む人を神様は祝福してくださいます。
日曜日の礼拝を軽んじることなく、主の再臨の日まで守ろうではありませんか。
エリコの地の信仰
ふたりは今度はエリコというところを目指しました。4節。
私達には、エリコの信仰が必要です。
そこは、さらなる信仰の飛躍の地です。
私たちはイエス様を信じてみ言葉に基づく信仰生活を始めます。そして、日曜日、聖日の礼拝を勝ち取る信仰、また十一返金という礼拝行為においても少しづつ成長していきます。
しかし往々にして、信じる私たちの眼前には、行く手を阻む巨大な悪魔の要塞が立ちはだかっています。信仰生活のさらなる前進と飛躍を妨害するためです。
どんな悪の要塞でしょうか。
それは夫々がどうしても立ち向かわねばならない悪の要塞です。肉と世とサタンの恐るべき悪の三位一体の要塞です。
バジレア・シュリンクという人の本に「変えられたいあなたに」というのがあります。聖書に基づくカウンセリングの本です。
そのなかに、いくつかのいくつかのクリスチャンとして乗り越えていかなければならない罪の問題が書かれてあります。
たとえば無責任・うぬぼれ・虚栄心・エゴイズム・迎合・ごますり(あるある💦)などいろいろなクリスチャンとして扱われていなければならない弱さが列挙されていて、いかに解決すべきか、それぞれにふさわしいみ言葉が書かれてます。
その中に「ぼんやり・空想」という項目があります。
私たちが神様と共に働けない理由の一つがそれだというのです。
ぼんやり・空想は、何かのことに気を取られている、空想にふけっている、それは自分の命のある領域を神様に明け渡さないでいる、神の支配下に自分を置かないでいることになるからだというのです。
そういう状態は、イエス様を心の中から締め出していることになるからだというのです。
もしそれであれば、私たちの中には、イエス様に明け渡さない開かずの小部屋があって、それは間違いなくそれだけでは終わらず、世にある領域に結び付く、敵のオイシイ餌のようなものでもありますので、必ずその思いを通じてたとえ救いを受けて携挙されることはあって、実のない信仰生活の原因になってしまいます。
この罪は一見悪くないように見えることがあるようです。
しかし、この悪い習慣は信じる者の心の中から霊的な命を奪います。
どうすれば解決することができるのでしょうか。
第一は悔い改めることです。
原因となるモノから離れなさいとバジレアシュリンクは奨めています。
それがなんであっても、人の会話・見るもの・聞くもの、なんであっても離れなさいと言っています。
バジレアシュリンク自身も、そんな弱さと戦いを経験されたようで彼女はこう書いています。「毎朝、毎夕、自分の心が思いに奪われないように聖霊様に助け、また戒めの心を下さるように求めなさい」。そのような祈りがとても助けになったと彼女は書いています。
ヨシュアたちは、み言葉にすがり、七回ぐるぐる要塞の周りを歩き回りました。彼らはついに、いのりとみ言葉のお約束によって一見難しくて勝ち目はなさそうに見えた敵の要塞でしたが、見事撃破することに成功しました。
聖霊様にお願いして、どこにそうした落とし穴が自分の中にはあるのかを示して下さることをお願いし、悔い改める力を送って下さるように願い求めましょう。
エリコの破壊は、その後のヨシュアたちにとっても大きな勝ち星となりました。
それほどに要塞は堅固でちょっとやそっとでは打ち勝てないように見えるものです。しかし、私たちはできないことも、主にはできないことは一つありません。
たとえ何度も失敗してきたとしても、み言葉のお約束に基づくなら勝利は必定です。かならず敵の守りは砕かれ、御心にかなわない罪やサタンの妨害を主にあって、私たちは打ち破っていくことができるのです。ハレルヤ!
お前は忙しいんだ。一時間も祈るなんてそんなのは暇人のすることさ。悪魔はそう囁きます。でもそうでしょうか。工夫次第では私も今日から、もういちど心を主に明け渡して、祈ることが出来ます。
私達にはできなくても主にはできないことはないからです。
もういちどヨルダンへ
最後にふたりはヨルダン川に行きました。6節~。
ヨルダン川とは聖書では死を意味する川です。
また死だけではなく、聖霊による復活の信仰に生きる象徴でもあります。
イスラエル人たちは、なんと!真に悔い改めるまで40年もかかりました。
その間どんなに自分たちが神に言い逆らってきたか!むだに過ごして年月だったのかを思い知って、古い世代はみんな荒野で死んでいってしまいました。
そして最後には、新しい世代だけが生き残っていたのです。
彼らはマナを通して荒野を通して、御心に生きる事とは何であるのかを学びました。
そして、ついに彼らはヨシュアの指導のもと、死と復活の川ヨルダンを渡ったのです。
そこはかつてイエス様が洗礼をお受けになった川でした。そして水から上がってきたとき、天から聖霊が鳩のようにおくだりになったのです。
ヨルダン川とは古い人の死を意味する川ですが、主の十字架の死を通して、聖霊が信じる者のうちにお下りになる時、私たちはイエス様の願いと思いの中に生きることを選び取るようになっていくように思考が変えられていきます。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。ローマ 6:4
十字架の主と復活の聖霊様のお働きによって、私たちの古い人が死に、新しい人が生きるようにして下さるのです。
ギルガルからベテルへ、ベテルからエリコへ。そしてエリコからヨルダンへ。
エリシャはエリヤのあとについて、二倍の霊を主から受けました。
エリシャは師匠のエリヤよりも静かで柔和で親切な働きを多くした。しかし師のエリヤに優る二倍の働きをしたと言われています。
祈る時、神様は、私たち一人一人にふさわしい奉仕へと導いてくださいます。
このように私たちは、聖霊様のお助けによって、導かれて、ギルガルからベテルへ、ベテルからエリコへ。そしてエリコからヨルダンへと、渡っていくときに、エリシャが二倍の霊を戴いたように、主の聖霊さまの注ぎを受けて、主にお仕えしていくものへと変えられ、信仰の成長と飛躍へと導かれていくのです。
お祈りを致しましょう。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:1主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。 2エリヤはエリシャに言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをベテルにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはベテルへ下った。 3ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。