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「祝福された人生の秘訣」

今回はⅠサムエル記から「祝福された人生の秘訣」というテーマで、ご一緒にみ言葉を学びましょう。

この1~3章を読むと、神様に祝福される人とそうでない人との違いについて書かれています。

Ⅰサムエル3:1-9*1

最初の一章からのところには、祝福される人とそうではない人との違いについて書かれています。まず祝福される人についてです。

祝福される人の特徴

Ⅰサムエル1:24-28.
1:24乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。 1:25そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。 1:26ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。 1:27この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。 1:28それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。
そして彼らはそこで主を礼拝した。

ハンナという母親がようやく乳離れした、かわいい盛りの子を、一生涯を神に仕える者として、主にお捧げしたことが書かれています。

辛いことだったに相違ありません。

なぜそんなことができたのでしょうか。

どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。ルカ 16:13

ハンナの信仰告白を読んでみましょう。

「主のように聖なる方はない。あなたに並ぶ者はない。」Ⅰサムエル2:2.

ハンナは困難な経験を通して念願の初子を得ました。

そしてハンナはその経験から、すべてに優ってイエス様が大切なお方であるということが分かったのです。

困難な経験は私たちを目には見えない愛の神に導いてくれます。 

聖書は、神様が私たちに耐えられないような試練は与えないと言っています。

困難は私たちの目を開いて、永遠に価値あるものに向けさせます。

神様は、もうこれ以上ちょっとでも負荷をかけたら、その人は倒れてダメになってしまうことを御存知なのです。

神様は、弱い私たちが耐えられる範囲内で困難にあうことを許されます。

試練と同時に脱出の道も同時に備えて下さって、その試練を通して神様の前にへりくだって、このハンナのように、大事なものをも主にお捧げするようになります。

なぜなら試練を通じて、イエス様が何にも勝って自分にとって大事なお方なのだという事が分かるようになるからです。

祝福されない人の特徴

それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。サムエル記第一 2:30

わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしを卑しめる者は軽んじられる。」とあります。※「卑しめる者」→「さげすむ者」新改訳

このみことばの背景を説明します。

その当時、神の宮にお仕えする祭司エリと言う人に、二人の息子がいました。

ところが、これがまた悪い息子たちだったのです。

日ごろから品行が悪くて、特に人々がいけにえの動物を連れてくると、それを勝手な仕方でおいしいところを食べてしまう‥‥。

ちゃんとした既定の食べ方を無視して、全焼のいけにえや罪の赦しのいけにえを軽々しく扱って、好き放題にしていました。

「私を蔑むものは軽んじられる」とあるように、そのあと、この二人の息子は戦争で死に、訃報にショックを受けた父親祭司エリも転んで首の骨を折って死にました。

しかし聖書は、ここで終わることなく、それとは対照的に祝福された人生を送った人のことについて述べています。

神様に祝福される秘訣は何でしょうか。

それは神様への従順です。

冒頭にあげたⅠサムエル3:1~9のところで、私たちが目にしたのは、まだ少年だったサムエルの主への礼拝者としての姿でした。

「サムエル、サムエル」。真夜中に寝ていると声がする‥‥。

彼は、祭司エリが自分を呼んでいるのだなと思って、エリのところに行きました。

もう寝ているんだよ、面倒だな、なんでなんだよ(# ゚Д゚)とかではなく、即座に、しかも走って祭司のところへ行ったとあります。

このようにサムエルという人は、きわめて小さいころから、神様に従うという従順の姿勢が養われていた事が分かります。

母親の祈り・誰かの祈り

そこには、サムエル一人の何かではなく、やはり母親ハンナの祈りがあったことを私たちは見逃すわけにはいきません。

「祈りの子は滅びない」といいます。でも‥‥

ああ、神様、わたしは今まであまり子供のためや、家族のために祈ってきませんでした!自分のことしか考えてこなかった身勝手な人間なのですと!

でも、神様はわたしたちがそんなものであることをご存じです。

だから、もう遅すぎると言わないで、いまからでもいいから祈り始めようではありませんか。共に祈り始めましょう!

家族の救いを身内の救いのために祈り始めましょう。

私の証し

私が生まれて生後半年間だったと思いますが、毎日、母は私が神様の御用のために用いられますようにと祈り続けたのだそうです。

母は、よくそのことを話してくれました。

それは、まだ母が教会に通い始めて一年も経たないときのことでした。

まだ洗礼すら受けていなかったのに、毎日そう祈ったというのです。

これは、聖霊さまのお働きに違いありません。

まさに、あのイザヤ46章の「永遠の昔からあなたを背負って運んできた」とあるように、永遠の世界からのメッセージです。

そして、実に、聖書は、神様が皆さんお一人一人をも、まだ宇宙が存在するようになる以前から、個人的に御存知で、おひとりひとりに災いではなく、幸いのご計画を立てておられると宣言しているのです。

私は感謝します。

主の永遠のご愛とご計画を。

また、そのような祈りをまだ教会に通い始めたばかりだったというのに、祈ってくれた母のために。

しかし、私は愚か者でした。いまもそうです。

サムエルのように、私はその後、紆余曲折があって中々従順になれきれないできました。

思い出すのですが、少年の頃聖書を読むように言われて、昼間はマンガを読んで、結局、聖書は夜寝るまぎわになります。でもそれだと眠たくなってしまいます。

眠たいし、読まなきゃいけないし‥‥わがままな赤ちゃんみたいになって、そのうちに腹が立ってきて、もう嫌だ! そんなことが何度もありました。

いま、あれから数十年経ちましたが、反省しています。

なぜなら聖書をないがしろにしてきたために、私のその後の人生はずいぶんと紆余曲折があったからです。

ですから今ではどんなに夜遅くなって眠たくても、全部その日の日課を読み終わるまでは床に就かないようにしています。

私はたったそれだけのことを学ぶのに何十年もかかりました。

尾とはならずに頭となる

しかし、その後サムエルの成長はどうだったでしょうか。

19~21節をもう一度見てみましょう。

何と書いてありますか?

3:19サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので、 3:20ダンからベエルシバまで、イスラエルのすべての人は、サムエルが主の預言者と定められたことを知った。 3:21主はふたたびシロで現れられた。すなわち主はシロで、主の言葉によって、サムエルに自らを現された。こうしてサムエルの言葉は、あまねくイスラエルの人々に及んだ。

「その言葉を一つも地に落ちないように」。

つまり神さまがサムエルと共にあったので、彼が語ることについては、誰も彼を蔑(さげす)んだり、バカにしたりすることなく、逆によく聞かれるようになって、やがて彼は国中から尊敬の目で見られるようになったということなのです。

主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。申命記 28:13

このみ言葉はサムエルの生涯に実現しました。

そしてこのみことばは、私たちのものでもあります。

尾ではなく頭となるために

このみ言葉の約束のように、尾ではなく頭となるためにはどうしたらいいのでしょうか。次のみことばを見てみましょう。

「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。
金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、
ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。イザヤ書55:1

人間の体は60%が水でできていると言いますが、物質の世界は霊の次元に倣っているので物質界に水が必要であれば、霊の世界にはなおさらです。

私たちの内なるところは、永遠の命の水を下さるイエス様を信じ受け入れないならば、枯れてしまうのです。

新約聖書に、今度こそ幸せになるつもりで五回も夫を変えた人の話があります。

でも今度こそとやるたびに、辛くなってきて、生きるのに疲れ果ててきたその時、井戸のところでバッタリとイエス様に出会いました。

彼女の人生は変えられました。そしてイエス様を宣べ伝える人になりました。

いのちの水の次は、ぶどう酒を飲みなさいと書かれています。

エス様を信じているのに喜びと賛美のない生活をしているならそれは病んでいる状態です。

聖霊に満たされましょう。そうすれば賛美と喜びがあふれてくるようになります。

そして乳、ミルク、つまり糧ですね。聖書を読んで黙想することによって、信じる人の心の内には、日々、天国からくる知恵、知識、判断力が与えられて、次第にこのサムエルのように並外れて優れた人に変えられていくようになります。

いのちの水を飲み、主が下さる天国からのぶどう酒~聖霊充満に与って、霊の糧によって日々養われて歩む人~その人は主を尊ぶ生き方をする人です。

ハンナの生き方を通して、サムエルの心の姿勢を通して、またこの後登場してくるダビデやいろいろな人間模様がこのサムエル記には出てきますが、祝福された一人一人は、神様を尊び、敬って礼拝を捧げた人たちです。

どうぞ、主を尊び、はい、ここにおります!と言って走って行った少年サムエルのようになりましょう。神様の御心を即座に行うものとなることが出来ますようにと祈りましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:

3:1わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。
3:2さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。 3:3神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、 3:4主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、 3:5エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。 3:6主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。エリは言った、「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」。 3:7サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。 3:8主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。 3:9そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。