聖書のある暮らし

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「神の祝福を見る歩み」

今回は、ご一緒に、エレミヤ書から「神の祝福を見る歩み」と題して、聖書を学びましょう。

エレミヤ24:1~10*1

神様は私たちの心の目が見ているものに関心をお持ちのお方

3節をよむと、神さまは、わたしたちの心の目が見るものに、関心をお持ちのお方であることが分かります。

主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。 3節

私たちの心の目が、日頃見ているものは何でしょうか。

第四次元という本を書いたチョー牧師は「見る法則」ということについて常日頃話されていました。

「私たちの心の目が見ているものに、私たちは吸い込まれていく。」という原則です。

私たちの人生は、見るモノによって支配されているのです。

私たちの心の目が常に見ているものと、私たちの一生とは関係しているのです。

虚栄心について

エスキリストは、マタイ6章1節からのところでこういわれました。

6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。6:2だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:3あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 6:4それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。6:5また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

バジレア・シュリンクという方の本に、「変えられたいあなたに」という本があります。その本は、クリスチャンが陥りやすい罪について書いて書かれています。その中のひとつに、「うぬぼれ・虚栄心の罪」というがあります。

それは人目を気にする罪です。

またその逆バージョンも真で、自信のなさと言うのもあると思います。

どちらも神の目よりも人の目を大事にする点では偶像に等しいのだというのです。

それは、このパリサイ派のように、だれかが自分に香を焚いてくれることを求めるものです。

それは、いかにも好ましい人物かのように振舞う事や、人からの称賛や尊敬・愛を勝ち取りたいという動機になって現れます。

魅力的な人間であることを求めるあまり、自分を偶像視し、神に喜ばれたいという永遠につながる願いを失ってしまいがちです。

私自身も、そんな思いが自分の中にあることを正直になって認めざるを得ません。

大事なことはイエス様からどう見られているかという事を重んじて歩むことです。

この預言者エレミヤは、ほかの人とは少し違った心を持っていたようです。

彼は神殿の前に置かれた二籠の果物を見ていたし、またその果物の籠を見るように神様からうながしをうけていました。

それは彼エレミヤが、常日ごろから自分が見るもの・聞くもの・触れるモノに注意を払っていたからだと思います。

7節をご覧ください。

わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。

主の祈りの一番最後のところに、「御国・力・栄光が主のものである」ことを宣言する祈りがあります。

そして、私たちが一心にその祈りを捧げるなら、つまり、一心とは、こころを明け渡して祈るなら~主はご自分の御国のご支配と力と栄光を、私たちと分け合ってくださると約束されているのです。

これは、驚くべき真理です。

そして、このエレミヤ24章7節にも同じような真理が書かれてあるのです。

それは「彼らに私が主である心を与える」というものです。

これらのことを真にわからせて下さるお方は、真理の聖霊様によるものです。

なぜなら生まれながらの人間にはこのことを理解する力はないからです。

外なる人と内なる人

2:13この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。 2:14生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。第一コリント 2:13,14.

人間である私たちは罪を犯すから罪びとなのではなく、生まれたときから罪びとであることを聖書は教えています。アダムとエバが手を伸ばして善と悪を知る木の実を食べたときから、罪が人間の世界に入ってきました。ですから私たちは生まれながら子々孫々罪びとなのです。

そして聖書は罪を犯した魂は死ぬと言っています。

死には二種類あって、肉体の死と霊的な死で、この場合は死は、私たちの生まれながらの部分では、神様について知ることはできないことを言います。

なぜなら生まれながらの人は霊的な存在である神に対して、霊において死んでいるから、断絶しているからです。勉強したり、修行したりして、神を知ることはできないのです。

ですから、このみ言葉が教えるように「愚かに思える」のです。

しかしイエス様を信じるなら、イエスの十字架の血によってその人の罪は赦されるので、再び霊が生き返るようになります。これが新生です。

そして新生した内なる人は、神のみことばを喜び、理解し、また聖霊のお力を受けて、み言葉を生きる力にし、また実行していくことが出来ます。

しかし依然として私たちの外なる人とイエス様を受け入れていない世の人たちは、外なる人によって支配されて生きているので、物質がすべてであるかのような生き方にするのです。物質万能主義者であり、体の五感という感覚がすべてであり、合理主義者、享楽主義者です。動物的な生き方と言えます。

このみことばは、霊は霊によってのみ理解することが出来ると教えています。

鳩は鳩同士が群れるし、カラスはカラス、猫は猫同士で群れるように、イエスキリストの十字架の血によって新生した人の霊は生き返って、聖霊によって神についての霊のことを理解するようになります。

そして聖書が私たちに約束している祝福の数々の約束はすべて霊なので、生まれながらの人ではなく、イエスの贖いの血によって新生した新しい人、内なる人に与えられる恵なのです。

どうか祈りましょう。

私たちの家族や友人・知人たちがイエス様の血によって新生して、霊において神様と交わって、祝福を受け止めることが出来ますようにと。

また私たちが日ごとに、外なる人にある惑わしにしたがって、ただ用いれば滅びてしまう物質中心主義だったり、享楽主義から守られて、神様があらかじめ信じる者たちに備えて下さっている祝福に目を留めていくことが出来るように祈りましょう。

新生の霊の目をもって聖書にある祝福を見て進もう

主は、そのようにして私たちに「主が主であることを知る心を下さる」というのです。そして、「彼らは私の民となり」、「私は彼らの神となる」とあるように主の祝福を第一に考えていくようなものへと次第に変化させられていくというのです。ハレルヤ!

エス様は、あなたの宝のある所にあなたの心もあると言われました。

6:20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 6:21あなたの宝のある所には、心もあるからである。マタイ 6:20,21.

天に宝を積む生き方とは、こころの目が何を見ているかによって決まります。

私たちの目は日頃を何を見ているでしょうか。
神様は私たちの心の目が見ているものに関心を持っておられるのです。

 どうかイエスキリストの御霊によって新生した内なる霊の人が、どうか主が天地の始まる前より、私たちのために備えて下さっていた祝福の数々を、み言葉を通して私たちの霊の目が見ることが出来ますように。

もう一度6,7節を読んで終わりましょう。

24:6わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。 24:7わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。

神はすべての人に祝福された人生を与えようと願っておられる

祝福された人生を、祝福された永遠への歩みを、主はイエスキリストの十字架の勝利の血によって、信じるすべての私たちに与えようと見はっておられるお方です。

 腐ったイチジクと良いイチジク

エレミヤよ、何を見ているのか?

~さん、何を見ているのですか? ※~さんに自分の名前を入れてみましょう。

はい、聖書を通してあなたが約束された祝福についてみています。

どうぞ、お言葉の通りになりますように。

そう祈るものになりましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:

24:1バビロンの王ネブカデレザルがユダの王エホヤキムの子エコニヤおよびユダの君たちと工匠と鍛冶をエルサレムからバビロンに移して後、主はわたしにこの幻をお示しになった。見よ、主の宮の前に置かれているいちじくを盛った二つのかごがあった。 24:2その一つのかごには、はじめて熟したような非常に良いいちじくがあり、ほかのかごには非常に悪くて食べられないほどの悪いいちじくが入れてあった。 24:3主はわたしに、「エレミヤよ、何を見るか」と言われた。わたしは、「いちじくです。その良いいちじくは非常によく、悪いほうのいちじくは非常に悪くて、食べられません」と答えた。
24:4主の言葉がまたわたしに臨んだ、 24:5イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。 24:6わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。 24:7わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。
24:8主はこう仰せられる、わたしはユダの王ゼデキヤとそのつかさたち、およびエルサレムの人の残ってこの地にいる者、ならびにエジプトの地に住んでいる者を、この悪くて食べられない悪いいちじくのようにしよう。 24:9わたしは彼らを地のもろもろの国で、忌みきらわれるものとし、またわたしの追いやるすべての所で、はずかしめに会わせ、ことわざとなり、あざけりと、のろいに会わせる。 24:10わたしはつるぎと、ききんと、疫病を彼らのうちに送って、ついに彼らをわたしが彼らとその先祖とに与えた地から絶えさせる」。