聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「栄光に輝く人生」

 今日は、主の祈りの六番目、主の祈りの一番最後の祈り「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです。アーメン。をご一緒に開いて学びましょう。

マタイ6:13*1

主が教えて下さった「主の祈り」は、まず「天にいます私たちの父よ、御名があがめられますように」と言う賛美の祈りから始まって、このように、最後も賛美の祈りで終わります。 

賛美の歌はいいですね。

賛美の歌を口ずさむと、そのあと祈りやすくなります。

どうしてかな?と思ってみたら、賛美の歌は、祈りにメロディーをつけたのが賛美の歌だからなんですね。ですから、祈れない時や、祈りづらい時などは、賛美の歌を口づさむことは、祈りの突破口になり得ます。

主は、この「主の祈り」に最後に、もう一度賛美をもって祈りを閉じるようにと教えて下さっています。それはどのような祈りでしょうか。

御国は主のものです!

実に、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる詩篇 22:28

古代イスラエルの王さまだったダビデは、広がりゆく自分の広大な国が主のものであると言ってたたえています。

彼は境界線に守備隊を置いたでしょうが、じつに主に信頼することによって国の領域を守ったのです。

そして、主はこの「主の祈り」で、私たちもまた、御国が主のものであることをたたえるようにと教えていますが、御国とは、主が治められる場所のことです。主の主権、ご支配が及ぶところを意味します。

神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。コロサイ書1:13

御国のご支配のもとに立ち続けたイエス

エス様が公に宣教を開始されるとき、悪魔の試みに遭いました。

しかし主はその時、御自分が闇が支配するこの世の支配下にではなく、御国のご支配のもとにあることを認められ、悪魔の小賢しい惑わしに対して、悉く(ことごと)、み言葉をもって、「こう書いてある」と言って反論されました。

最初のアダムは妥協しました。

そうかなあと言って、善と悪を知る木の実をとって食べてしまいました。

しかし第二のアダムであられるイエス様は、み言葉によって主にだけ仕えよ!と宣言して、悪魔を退けたのです。

私たちも御国の支配下に自分が置かれていることを覚えましょう。

やがて主は再臨されて世界を治められる時が来ます。

そして神様は、私たちにその御国の統治を分かち合ってくださいます。

私たちは自分がその時まで日々、主のご支配とご主権のもとにあることを聖霊様の啓示によって弁え知って、永遠のダビデの王国の王であられるイエスキリストを賛美しなければなりません。

力も主のものです!

二つ目の祈り方は、「力は主のものである」と宣言する祈りです。

エス様は、ユダヤ人の諸会堂を経めぐって御国の力を公示されました。

エス様が会堂でお話を始められると、それと知った悪霊どもはその宣教のお働きを妨害しようとして、悪霊に憑かれた人たちを用いて、大声をあげさせました。しかし主は一喝して「黙れ!この人から出ていけ!」とお命じになると、悪霊はピューッと音を立てて、遠くへ「こりゃたまらん」と逃げ去っていったのです。

主は、その後、何匹もの悪霊を次々と負いだされました。

今度は、お弟子のひとりペテロの家に行くと、そこに高熱でうなされて危険な状態にあるおしゅうとさんがいました。

主がその高熱をお叱りになると、おしゅうとは即座に平熱に戻り、イエス様御一行をもてなしました。

また波の上を歩き、風や嵐を静められました。

それらすべての奇蹟的なお働きは、すべて聖霊さまのお力と権威で行われたものでした。

すべては聖霊様のお力によるお働きだったのです。

聖書には、「聖霊の賜物(たまもの)」という個所があります。

たとえば癒しの賜物とか、霊を見分ける賜物だとかいろいろあります。

先日のペンテコステ礼拝では、姉妹たちが今後、主のみ声を聴き、預言を語り、幻を見るようになって、主の御心を遂行していくようになるとの期待と宣言を致しました。

では、どうして私たちのような平凡が人間に、そんなイエス様が行われたと同じようなことを実行していくことが出来るのでしょうか。

その根拠は、聖書には「だれだれさんの賜物」とか「だれだれさんの能力」とか書かれてはおらず、ただ「聖霊の賜物」と書かれてあるからです。

聖霊のたまものとは、自分に与えられる何かのタラント、ギフトではなく、徹頭徹尾、それは聖霊さまのお働きだからなのです。

私たちはただ管となるだけでいいのです。

ですから心配せず体の具体の悪い人がいれば、癒されるように手を置いて祈ってあげるし、悪霊の問題で苦しんでいる人がいれば、「悪霊よ出ていけ!」とイエス様のお名前を使って命じればいいだけなのです。

主は、「恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは父の御旨である」と約束されました。どうぞ祈りをもって、主に御自分をお捧げして下さい。私を通して聖なる力ある御業(みわざ)を行ってください、主に私をお捧げしますと祈って下さい。

栄光が主にあるように

三つ目に主は、神に一切の栄光があるよう祈りなさいと言われました。

2:9ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 2:10なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。ヘブル 2:9,10

私たちの神イエス様は唯一、全ての栄光と賛美をお受けになるにふさわしいお方です。アーメン。

私たちが日々、主の栄光をたたえるためには、今一度、自分の信仰が人本主義の上にあるのか、それとも神中心の上にあるのかを吟味する必要があります。

もし自分の信仰がヒューマニズム的な人間中心主義にの上にあるのなら、本当の意味で主に栄光をお返しすることは難しいと思います。

伝道旅行中、イエス様が弟子たちに御自分の十字架の受難を告知されると、弟子のペテロがイエス様のことを考えて、イエスをいさめました。「めっそうもない。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と。

その時でした。

主は振り返ってペテロに「サタンよ退け!」と一喝したのです。

ワオ! 俺はサタンなのか!?

ペテロはそう思ったかもしれませんが、イエス様が仰りたかったことは、そうではなく、主の御心の十字架の受難の道を妨害するサタンが、この瞬間弟子のペテロを惑わしている、と言われたのです。

「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とも言われました。

アダムとエバは神様のお命じになったことではなく、悪魔にそそのかされた考え方を心の中に受け入れてしまい、とって食べてはならないと戒められていた善悪を知る木の実をとって食べてしまいました。

その結果、世界に病と罪が入り込み、戦争と悲劇が繰り返されるようになったのです。人類の歴史は戦争の歴史だとも言われているのはそのためです。

どんな機構も条約も、政治の力もこの問題を解決することはできません。

 

また今度は、悪魔はイエス様を神殿の高いところに連れて行って、そこから飛び降りてみなさいとそそのかしました。

しかし主は、そのようなことをすることは、主を試みること、つまり神を試すことになる~神の上に立ってものを見たり、考えたりすることになるので上手くいかないのです。人間中心の考え方だからです。

しかし、このへブルのみことばにあるように、イエス様は人間となられ、へりくだられ、十字架の死に至るまでも父なる神さまの御心に従われました。

その結果、栄光と誉の冠を受けになられたのです。

ですから、私たちも、魂の救い、癒し、また必要のための祈りなどを通して、よりよく主の栄光に与っていくことを願うのであれば、日々、祈りをもって、自分が神ではないこと、また神様の栄光のために、自分自身を献身の器としてお返しします、お捧げしますと言って主にお捧げしていく必要があるのです。

2:11そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、 2:12御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。第一テサロニケ 2:11,12

ここに使徒パウロの諸教会への親心が表れています。自分なんてダメなんだと、ダメクリスチャン、ダメ夫、ダメ人間、ダメ牧師だと。

しかしパウロは励まします。そうじゃないですよ。

私たちが神の栄光を追い求めていきさえするなら、神様は、主に従う私たちに御国と力と栄光を分け合ってくださいます。

栄光に輝く人生。それは、主の御国と力と栄光にイエス様によって与っていく歩みなのです。

お祈り

天の神様。

私をあなた様の御用のためにお捧げ致します。

どうぞあなたの聖い御心のために私をお用い下さい。

エス様のお名前によってアーメン

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:国と力と栄えは、とこしえにあなたのものです。アーメン。