聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「忠実な祈り」

主の祈りの「御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」というところから、「忠実な祈り」というタイトルで、少しの間み言葉を学びましょう。

マタイ 6:10 *1

 

前回は、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」とあるところから、主のお名前について学びました。主は我が義なる神、平和の神、癒しの神、供給の神。共におられる神などがありました。

神様は、天地の創り主です。また御子イエスを惜しみなくお与えくださって、信じる私たちを罪の淵から、滅びの淵から贖いだしてくださいました。

ですから、この神さまを、私たちの生活の第一に据えていく時すべての面で祝されていきます。

ちょうど、洋服のボタンを掛け間違うと、あとあと上手くいかなくなるのと似ていて、最初が肝心です。

では、私たちはどのようにこの祈りを始めればいいのでしょうか。

Ⅰ自分のために祈る

日常の生活の中で、世にあるいろいろなことのために、考えたり、忙しくしたりするうちに、次第に自分が主のものであることを、私たちは忘れやすくあります。

 5:15そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。Ⅱコリント5:15.

上記のみことばには、信じる人は、イエス様の住まいとされているとある聖霊の住まいの管理者として任命されているとあります。 

ですから、毎日、自分の主が主でいらっしゃることを認めて告白して、主に賛美の歌を歌います。また主が主であるために、聖書を開きます。御心を知るためです。

そして、神様がお導き下さることには、全面的に従えるように祈ります。

Ⅱ家族のために祈る

自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。第一テモテ 3:5

洋服のボタンの最初をただしくかければ、後はうまくいく~それは身近な一人一人の家族にも、あてはまることです。家族に御国がきますようにと祈ります。

私たちは、さもなくば家族の生活は上手くいかないことを知っているのです。

ですから子供たち、配偶者、こどもらが、御心に沿って進んでいけますように祈ります。彼らがイエス様に心を明け渡せるようにと祈ります。

御心に沿って進むなら幸せになれるからです。

時々、そう祈ることに不安をおぼえることがあっても、御心がなりますようにと言って、家族の一人一人のために祈りましょう。主の私達へのご計画は最善だということを知っているからです。

自分だけではなく、家族も御心を行えるようにとりなし祈りましょう。

あなたの完全な御心を私、配偶者、子供たちの中にどうぞ行ってください、と祈りましょう。「御国が来ますように!」「御心がなされますように!」と宣言して祈りましょう。

Ⅲ 教会のために祈る

教会のためには、どのように祈ればいいのでしょうか。

受けた課題や願い、ビジョンがあったのなら、その祈りを忠実に続けましょう。

私たちは少しばかり祈っても、何も起こらないのを見て、すぐ失望して祈りをやめてしまう傾向があります。

悪いことに、祈っても、反対の結果になってしまったとか!

なかなか事態が動かないとか。

こんな祈りは、最初から御心でなかったのかもしれない~そう言って以前のように熱心に祈るのをやめてしまいます。

しかし、それは、忠実な祈とは言えないのではないでしょうか。

どうか、祈り始めたその課題を途中で投げだしたりせず、祈り続けたいものです。新しい気持ちで、○○さんのお母さんのために、魂の救いのためにとりなし祈ろうではありませんか。

主は私たちが、いただいた最初の祈りの課題に対して、忠実であることを、祈り続けることを願っておられます。

それは、自分が植えられた神の家に対して「忠実」であるということです。

神様が下さったビジョン、願いに対して、祈りにおいて忠実でありましょう。

宣言の祈り!

43:5恐れるな、わたしはあなたと共におる。
わたしは、あなたの子孫を東からこさせ、
西からあなたを集める。
43:6わたしは北にむかって『ゆるせ』と言い、
南にむかって『留めるな』と言う。
わが子らを遠くからこさせ、
わが娘らを地の果からこさせよ。
43:7すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。
わたしは彼らをわが栄光のために創造し、
これを造り、これを仕立てた」。イザヤ書 43:5
-7.

ある先生の本によると、「御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」というギリシャ語のニュアンスは、来たれ!御国よ!なされよ!御心!という強い意味を持った文章なんだそうです。(ラリー・リー「一時間でも祈っていることができないのですか?」) 

もしそうれであるのならば、このイザヤ書のように祈ってもいいのではないでしょうか。そこには人格的な引き留める存在がいるかのようです。

魂の救いを妨害する敵に向かって、祈る時命じます。「解き放て!」と。

どうかこのような救霊の祈りについても忠実な者にならせて頂きましょう。

御国の顕れは力とおどろき

先日、聖書の通読個所を読んでいて、イエス様が家におられたとき、自宅の二階の屋根をはがして病気だった友人を担架に乗せてつり下ろしたお話がありました。

そして、主はその場で、その人の罪をゆるし、病をいやされました。

しかしその場に数人の律法学者らがいて、こころの中で理屈をこねたとあります。「こんなことをするこの人は何者か?」と。

らは自分たちのほうが何でもよく知っていると考えていたのです。何という人たちか、と思って読んでいました。

しかし、よく考えてみると、これは自分のことではないか!と思えてきました。

教会に必要なのは、理屈や知識ではなく、「御国が来ますように!」。そう祈ることで、主のお力が現わされることです。

周りで見ていた人たちにとって、主のお働きの様子は、ただただオドロキでしかありませんでした。

主の御業は、魂の救いはただただ聖霊のお働きです。

私達には驚きでしかないような、主のお働きが私たちの周りで起こりますように、そのように、どうか、救いの収穫の務めに私たちが忠実であれますように。 

御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように!祈りましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:6:10御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。