聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「ペンテコステの祝福」

今日はペンテコステ記念礼拝です。

イザヤ書から、ペンテコステの祝福という題でご一緒に聖霊の祝福に与っていきましょう。

イザヤ32:15-20*1.

イザヤ32章の概説

今日のペンテコステ礼拝のために開いたイザヤ書ですが、イザヤ書は壮大な書です。

これは旧約の黙示録と言ってもいい書で、再臨について、また終末の時代について詳しく書かれている書です。

1節の一人の王とはイエスキリストのことです。

また「首長たち」とは、再臨の主と共に千年の間、世界を治める教会のことです。

2~8節は、イエス様が治める千年期について書かれてあります。

「愚かな者」とありますが(新改訳2017、口語訳)それは主イエスを、唯一の創造主、救い主としてあがめない人たちのことを言います。

長い間、人間の欲が中心となって世界は動かされ続けてきました。

彼らは嘘をついたり、人をだましたり、誤魔化したりしながら世界を支配してきました。

しかしイエスキリストが治める千年期は、8節にあるように「貴い人」(新改訳では「高貴な人」)が、エルサレムを中心地として世界を治めていくようになるのです。パウロは、そのとき、教会が世界を治めるようになると語っています。

9節からはエルサレムイスラエルの裁きについてです。

「やすんじている女たち」(新改訳「のんきな女たち」)とは、エルサレムイスラエルのことです。

現在、イスラエルは最強の兵器で自国を防衛しています。

また今回のウクライナとロシアの戦争にも仲介役をしたり、最近はアラブ諸国からも友好国が出はじめてきて、前途は明るいようです。

しかし、聖書では、こののちロシアとトルコ、イランその他の国がイスラエルを攻めてくることが預言されています。

また、聖書が預言する大患難期には反キリストの陰謀による困難を経験します。この9~14節は、そんなときのことを思わせるような個所です。

霊の注ぎ

しかし今日はこの15節にある「霊の注ぎ」という個所に注目しましょう。

15節~「しかし、ついには」とあります。

その時荒野が果樹園に、果樹園が森になる~これは聖霊さまのことですね。

17節からは義による支配~これは再びイエスキリストによる世界統治のことを言っています。

17~19。世界はこのお方によってのみ真の平和、安全な家、安らかな憩いの場が備わるような時代が来ると言っているのです。

19の、口語訳では林、新改訳では「あの町、あの森」とありますが、古代アッシリアとする解釈も当然ながらありますが、これは前後の関係から先の「愚か者」「しれ者」、主を主として認めようとしない人たちの支配してきたこの世界の荒廃を言っているのではないでしょうか。

荒野が果樹園に、果樹園が森になる体験

16:12わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 16:13けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。ヨハネ 16:12,13.

今日はペンテコステの記念日ですが、荒野が果樹園に、果樹園が森になる、それは聖霊さまが注がれる体験のことを言っています。

なぜならば、聖霊のお働きによらなければ、荒野が果樹園になるような出来事は起こらないからです。

これはイエス様と私たち人間との間のことをも語っています。

つまり、イエス様とはだれなのか?自分とどういう関係があるのかということです。

つまり心が聖霊によって一新されることを言っているのです。

聖霊によってイエスがどなたであるかを理解する

かつて2000年前、主がこの世においでになったとき、人々は、また弟子たちですらイエスが誰なのか最初分かりませんでした。ただただオドロキをもって見るだけで、周囲ではイエスを革命家、宗教家、学者、道徳家と思ってみていたようです。

エス様は三年半に亘ってみ言葉を語られ、御国の福音を宣べ伝え、最後には人のすべての罪を身代わりに背負って十字架に架かられ、死んで三日目に復活し、その後、昇天されましたが、弟子たちは?と言えば、はただただ衝撃を受けるばかりでした。復活の主と再開しても、不思議だなと思いつつも、今こそ、国の経済と政治を改革してくださるのですね、と尋ねたほどでした。

彼らはイエス様がなさったことの一つ一つが何のためであったのか分かりませんでした。

そんな彼らがはっきりと、イエスとは誰なのか、分かるようになったのは、いつだったでしょうか。

それは、ペンテコステの朝だったのです!

神第三位格 聖霊さまが理解させて下さる

主があらかじめ教えて下さってはいましたが、具体的に、立体的にわかったのは、聖霊様がおいでになったときでした。そのとき弟子たちの知性や理解力は新しくされました。

「だれも聖霊によるのでなければ、イエスは主ですということはできない」のです。1コリント12:3.

さきほどあった、しれ者~愚かな者、のんきな女だとか、つまり慢心と高慢の罪で心の霊の目はつぶったままで、彼らは聖霊が教えて下さらない限りは、自分たちが救われる必要があるとか、自分が罪人だとかは分からないのです。

しかし聖霊が下られるとき、荒野が果樹園に変わったように、弟子たちの知性や理解力は変えられたのです。

なぜなら聖霊さまは全能者だからです。

光よあれ!と言われた方にはそれができるのです。

生きる目的が分かるようになる

このみことばに、聖霊が来られる時、私たちの間違いを正してくださるとあります。聖霊さまは、私たちに、信じる者の罪はイエス様の十字架によって取り除かれたことを教えて下さり、今のこの世界は永遠には続かないこと、そしてイエス様が天に昇られて父なる神さまのおられる所に行かれたように、信じる私たちも、天に昇り、新しい天と新しい地で永遠に生きる事こそが根本的な目標であるということを分からせて下さるようになるのです。

これらすべては聖霊様が来られる時にはっきりとわかることなのです。

聖霊さまに日々満たされましょう

またすでにイエス様を信じて主の弟子とされた私たちは、日々聖霊充満されて歩む必要があります。

どのように満たされていくのでしょうか。

それは祈りとみ言葉によってです。また礼拝に出席してメッセージを聞いたり、賛美したり交わったり奉仕することによってです。

繰り返し起こる聖霊充満の体験

聖霊を読むと聖霊に満たされるという体験は一回きりのことではありません。

それは繰り返される体験であることが聖書に書かれてあります。

異言の伴う聖霊バプテスマとは何でしょう。

それは、満たされた結果、新しい言葉を語ることです。

ではなぜそれがバプテスマ、つまり浸されていく=満たされていくことなのでしょうか。

その理由は、異言の伴う聖霊バプテスマは、異言を用いて自由に主と日々交わることにあるからです。それなしには、聖霊バプテスマにはなり得ないことです。

どうか異言で祈って聖霊に満たされ続けていきましょう。

異言で祈りましょう。異言で祈るための幾つかのこと

Ⅰ.第一にそれはペンテコステの朝に教会に与えられたものだからです。それは否定しようありません。歴史的字義的事実です。

Ⅱ.またそれは、すくいの御霊を受けた人にはだれでも与えられる祈りです。

Ⅲ.手を置いて祈ってもらう。

Ⅳ.また異言の祈りは自分で語りだす必要があります。言葉を下さるのは聖霊さまです。しかし語りだすのは自分なのです。

皆は聖霊に満たされ、御霊が話させてまま、他国のことばで話しだした使徒 2:4

Ⅴ.恐れを持たない。

これはまやかしではないか。ほんとうにそうなのかと疑う思い。ルルルとか、バババばっかりで変でないのか?と疑わない。続けてみてください。それが他国の言葉に変わる時があるのです。赤ちゃんの言葉は最初は、単音ではありませんか。

11:11あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。 11:12卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 11:13このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。ルカ 11:11-13.

Ⅵ.リラックスすることです。また言葉が出来てきたら、既に与えられている人と一緒に祈ることによって励ましを受けることが出来ます。

Ⅶ.焦らず静かにこれらの時を持つ。

 

 

 

f:id:seishonoarukurashi:20201216122008j:plain

 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:32:15しかし、ついには霊が上から
われわれの上にそそがれて、
荒野は良き畑となり、
良き畑は林のごとく見られるようになる。
32:16その時、公平は荒野に住み、
正義は良き畑にやどる。
32:17正義は平和を生じ、
正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。
32:18わが民は平和の家におり、
安らかなすみかにおり、
静かな休み所におる。
32:19しかし林はことごとく切り倒され、
町もことごとく倒される。
32:20すべての水のほとりに種をまき、
牛およびろばを自由に放ちおくあなたがたは、
さいわいである。