「イエスは主であることを認めて祝福に与ろう」
お元気でお過ごしでしょうか。
庭の家チャペルの伊藤と申します。
今回は、旧約聖書の申命記という記事からお分かちしたいと思います。
申命記は、イスラエル人が長い荒野の旅を終えて、ようやく約束の地に入る直前にモーセから改めて律法についての教えがあったものを纏めた(まとめた)ものです。40年前にエジプトを出てきた第一世代の民はヨシュアとカレブを除いては、すべてが荒野で死に絶えて、そのときそこにいたのは、第二世代の民だったという、ある意味恐ろしいことでもありました。
私たちと申命記の関係
今は世の終わりの時代です。この終わりの時代に聖霊さまは、2500年前のイスラエルの民に教えられたように、この時代の私たちにも、主の変わらない御心はなんであるかを再確認するために備えておられる書ということが出来ます。
この申命記を中心に、主の私達へ不変の御心についていくつかのことをご一緒に学びましょう。それは私たちが主の御心を学ぶことによって祝福に与っていくためです。
真理なるイエス様、聖霊様
イエス様はご自分のことを「真理である」と言われました。
真理とは永遠に不変のものをいいます。裁判官のピラトは、主が十字架におかかりになるとき、「真理とは何か」と尋ねました。彼はその後左遷させられたとの逸話がありますが、彼も当時の難しい立場、人間関係に苦しんでいたのでしょう。イエス様のことがわからないピラトには迷いが多かったのです。
わたしたちも、真理であられるイエス様と、真理の御霊であられる聖霊さまによるのでなければ、人生に迷いが生じて苦しみます。聖霊さまは今日も生きていて、私たちに、主の御心を、頭ではなく、こころで理解できるように助けて下さるお方です(第三位格の神)。そして、わたしたちを平安、喜び、希望の中に導いてくださいます。
私は偉大な人
モーセはこの申命記でイスラエルの民を偉大だと言っています。確かにユダヤ民族は優秀ですね。モーセがこう言ったのは自画自賛ではなく、イスラエルが神のみことばを担っているからです。私たちも、聖書のみことば、福音を担っているのですから、先週も学びましたが、劣等感などは持つ暇はないんですね。偉大なみ言葉を預かっているで、主にあって偉大なものとなるのです。そのことを告白しましょう。
イエス様が私の人生の主、永遠の主です
しかし、そのためには、「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。」との奨めがあります。(9)
次の5章15節~20節を読んでみましょう。
5:15あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。5:16あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。5:17あなたは殺してはならない。5:18あなたは姦淫してはならない。5:19あなたは盗んではならない。5:20あなたは隣人について偽証してはならない。5:21あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない』申命記 5:15-21.
ここでは土曜日を休日とすること、つまり安息日を守ることについて、あらためて教えています。イエス様はご自分を「安息日の主」と呼びました。人が休む目的は、イエス様が主であられることを忘れないためです。イエス様は私たちの主です。
そのことは永遠に変わらない不変の原則です。ですからクリスチャンは毎週集まって礼拝を捧げます。イエス様は私の救い主であることを忘れないために、そのことを覚えて感謝するために。主が私の力であられることを忘れないためにです。イエス様が私の主であられるという事は、他の何物も私の主ではないということです。
イエス様を主とした人の生活
ですから、続いて申命記は、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、偽るなと教えているのです。イエス様が私の主であられることを通してそのような悪から離れていくことが出来るようになるからです。
21節では、貪欲であってはいけないというのです。なぜでしょう。
人が持っているものを見てうらやんではならないというのです。
その理由は、イエス様が私の主であられるからです。
人の持っているものを見て、いいなぁと思わなくなるくらいにイエス様が主であるからです。イエス様は、信じる者に、求めているすべてを下さいます。平安、いのち、愛、希望、将来、忍耐力、必要のすべてがこのお方にはあるからです。
しかし、この世に働いている貪欲の霊に振り回されるなら、クリスチャンでもそのことが分からなくなることが、一時的にせよ、時々あります。もったいないことですね。多忙であったり、他の何かで心が振り回されることによります。
しかし、振り回すもの、貪欲の霊が追い出されるなら、イエス様を信じることがどんなに素晴らしいことなのかという事がはっきりわかってくるのです。
なぜなら聖霊さまは真理だからです。真理の御霊であられるからです。
初代の教会の人たちは、聖霊に満たされていたので、自分たちの財産すら分かち合ったとあります。つまりそれほどに、それまで宝のように持っていた不動産だの、なんだの必要なくなって、それ以上に分け与えたいという切なる願いによって、もったいないだとか、自分だけだとかじゃなくて、愛に迫られて、自発的にそうしたくて、彼らは自分たちの所有物をペテロの足元に置きました。言われてではなく、多分、喜んでそうしたと思います。
どうぞ、真理の御霊様、私を導いてくださいと、祈りましょう。
申命記の目的ー人が幸福になるため
5:28あなたがたがわたしに語っている時、主はあなたがたの言葉を聞いて、わたしに言われた、『わたしはこの民がおまえに語っている言葉を聞いた。彼らの言ったことはみな良い。 5:29ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。
イスラエル人は、聖なる山で主なる神の大きなみ声を聴いたとき、恐れました。
そのときのことを、この記事は語っているのですが、主は彼らが主を恐れたのを「もっともだ」(新改訳聖書)、とおっしゃっているところです。そして、主はその理由を述べています。それは、彼らが、29節にある通りです。主を恐れることによって民がいつまでも幸せであるためだと。
主を恐れることは私たちが幸せになるためです。真理は曲がることがありません。
主を主とすることによって与えられる主からの恵みがあります。
どうぞ私たちはもう一度、立ち止まって、主が教えて下さった一つ一つのことについて吟味して、お従いしているだろうか?考えてみようではありませんか。
旧約聖書のマラキ書には、安息日や十一献金について書かれています。
安息日。安息日の主は主です。十一献金、それは主のものですとあります。
それをいろいろな理由をつけて渋る人は、情欲、貪欲に縛られています。だから、いろんな理由をつけてみ言葉に従おうとはしません。
しかし、私たちは申命記を通して、今日、学びました。
主は私たちを素晴らしい聖霊様で満たされます。愛で満たされます。
どうぞ、主にご自身を毎日、お返しして、お捧げして、御心を思しきことがあれば、従いましょう。祝福は波のように、そして偉大なものとして主はこの教会を、私たちを用いて下さいます。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
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