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「イエス様の義に信頼する」

エス様の義に信頼する

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 こんにちは。庭の家チャペルの伊藤です。

今日は、この箇所から、「イエス様の義に信頼する」という少し難しいタイトルですが、ご一緒に新約聖書のローマ書9:30-10:4から学びましょう。

 ローマ9:30-10:4.*1

 

 義とは 義とされることとは

 30節に「義」ということばがでてきますが、聖書でいう義とは何でしょうか。聖書でいう「義」とは神自身のことです。そして義とされるとは、「神との良い関係にはいる」ということです。

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 義とされるとはプライドを捨てること

 たとえば誰しもがうらやむような一流企業に社長さんのひとことで入社できるとします。どんなリアクションが考えられますか。「ヤッター」でしょうか。しかしなかには釈然とせず、「うれしいけれどお断りします。理由は自分の実力で入りたいからです」という人もいるかもしれません。自分の義を立てると言うことはそれと似ています。聖書ではそれを「律法による義」と表現しています。しかしそれに対して「信仰による義」とは、プライドを捨てることです。こんな自分に?いいんですか?それは身に余る光栄です、ありがとうございますと言って素直に率直に受け取ることを言います。

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 信仰を持つことの妨げになるもの

 実はこの「律法の義」が神様がすべての人に与えようとしている「永遠の命への救い」の妨げになっているのです。それは自分にこだわり続けることで、自分の弱さをほんとうは認めようとしない神にも人の前にも固い心の状態のことなのです。

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。         い旧約聖書イザヤ9:33
 民衆からあなどられたイザヤ
28:9「彼はだれに知識を教えようとするのか。
だれにおとずれを説きあかそうとするのか。
乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。
28:10それは教訓に教訓、教訓に教訓、
規則に規則、規則に規則。
ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。
28:11否、むしろ主は異国のくちびると、
異国の舌とをもってこの民に語られる。
28:12主はさきに彼らに言われた、
「これが安息だ、
疲れた者に安息を与えよ。
これが休息だ」と。
しかし彼らは聞こうとはしなかった。イザヤ28:9‐12.

 イザヤは自分の国の人たちが時の軍事大国アッシリアに寄りかかって安心している状況を見て、これはマズイな。それは偽りの平和であることを見抜いて率直に「それは危険です。むしろ目に見えない神に信頼を置くように」と王と民衆に進言しました。しかし民衆は、そんなイザヤのメッセージをバカにしました。日本語訳では「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則」と同じ言葉の繰り返しになっていますが、これは幼い子供が同じ言葉を連ねるのをまねたもので、「またあいつは、バフバフと他愛もないことを言っている」。もつれた舌とありますが、ペンテコステ派の異言の音声は、たわいのない発音の連続であることが多く、パパパパ、ルルルゥ。それは知らない人の前ではちょっと赤ちゃんみたいな発話で恥ずかしですね。でもそれは天与のことばです。イザヤはこのとき異言で語ったのではないとは思いますが、民衆は彼の「目に見えない神に望みを置く」というメッセージをたわ言と言ってあざけったのです。

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 異言の祈りの力について

 ある朝、聖霊の促しによって異言で祈っていました。その後、連絡があって、遠方の知人があやまって川に落ちて、危うく急流に飲まれて命を落とすところだったというのです。しかし、そのとき思いがけない助けがあって、なんとか助かったというのです。私はその事故があった日時を聞いてみました。なんとそれは私が異言で祈っていた時だったのです。ある人はこんなことを言うと偶然だと言って笑うでしょう。しかし祈る人にはそれが偶然ではなく、神のお働きであることがわかるのです。

 民衆は神の力を計算に入れなかった

 この同じイザヤ28では「礎のかしら石」ということが書かれていて、それは新約聖書の時代にあったイエスキリスト(救世主)の出現についての預言です。

 それゆえ、主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしはシオンに
一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、
堅くすえた尊い隅の石である。
『信ずる者はあわてることはない』。
イザヤ書 28:16

 聖書は現代の私たちに語りかける 

 聖書の預言は現代の私たちにも語りかけています。ちょうどイザヤの時代がアッシリアという軍事大国にしがみついて、偽りの平和に安心を求めたように、聖書では、世の終わりの時代になると、人の心はより強くて安心できる環境を希求して、ついには世界的な統一政府と世界宗教へと発展していくことが預言されています。国は国に、民族は民族に敵対し、方々に戦争や戦争のうわさがあります。飢餓が広がり未曽有の大地震は多発しています。それは聖書で古(いにしえ)から預言されてきた終末の兆候なのです。まやかしや見てくれのものがもてはやされやすい時代に、すでに目に見えない自分を超えた大きな存在とその力に目を向けるべき時が来ています。

 5:1兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 5:2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 5:3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 第一テサロニケ 5:1~3.

 聖書は世と世にある物は過ぎ去ると言っています。イザヤのメッセージは人々から、たわ言といって蔑(さげす)まれました。私たちは、異言の祈りがそうであるように、プライドを捨てる必要があります。

 イエス様の義=十字架の死と復活の前に自分を捨てて

 主は私たちを永遠の滅びから救い出すためにこの世に来てくださり十字架につかれ、私たちの罪と病を負って下さいました。御しがたい自分。それは罪なのです。そして病があります。自らの弱さと病のいっさいを十字架に架り、三日目によみがえられた神の子イエスキリスト様の背にお任せしてください。そのようにして本当の心の平安と永遠の命の希望を受けましょう。

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 prodigal son 放蕩息子 ルカ伝

 受けるに値しないものを受け取るのはプライドが許さないものです。しかし自分は救い(神と正しい関係になること)を受けるに値しない罪赦された罪人で、今あるのは執行猶予付きの日々でしかないようなものであることを認める~それはプライドがゆるさないでしょう。でも自分というものはそんなものでしかないという事を、神の前にも人の前にも認めていくかどうかが大切なことなのです。イエス様の義により頼んでいきましょう。

 お祈りをいたします

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

*1:9:30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 9:31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 9:32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。第10章 10:1兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 10:2わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 10:3なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 10:4キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。