「神さまが願う祈り方」
「エルサレムよ、私は城壁の上に見張りを置きました。
驚いた訳の違い
今日のイザヤ書62章6,7節のみことばは、新改訳聖書の2017年版でも同じような訳になっています。第三版は違っていますが。
他の英訳なども参照すると、やはりこの訳が正しいようです。
こうなると新改訳聖書第三版と、かなり意味が違ってきます。これは驚きです。
私はこの個所を先日の通読個所で読んだのですが、読みながらイエス様が語られたふたつのたとえ話を思い起こしました。
イエス様が、その二つのたとえを話されていた時、このイザヤのみことばのことを考えながら話されていたのではないでしょうか。
主の語られたふたつのたとえ話
それは、二つあるのですが、一つは、ルカ伝11章5節からのところです。
ルカ11章5節~10節。
11:5そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。 11:6友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、 11:7彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。 11:8しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。 11:9そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 11:10すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
特に8節に注目すると
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
次は、同じルカ伝18章1節から7節までのたとえです。
18:1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 18:3ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 18:4彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 18:5このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 18:6そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 18:7まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 18:8あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
イエス様はことさらに2節と4節で、繰り返して「神を恐れず人を人とも思わない裁判官」ということを強調されています。
最初の例話では、友達だからという事で願いを聞き入れたのではないとありましたし、この例話では、この裁判官がいい人だったから願いが聞き入れられたわけではないと強調されています。
では、二つの例話の共通している点はなんでしょうか。
「しつこかった」と言う点です。(★関西以西では「ひつこい」?)
これらのいくつかの聖書の記述を総合して考えてみると、驚くべきことが分かってきます。
祈りとは、しつこく嘆願するべきものだということです。
そして、神は私たちにそのような祈りをすることを願っておられるということです。
「あなた方が受けることが出来ないのは、願わないからだ」と。
また願ってはいても、受けることがないのは~つまり祈りが答えられないのは、悪い動機で自分の快楽のために求めるからだと言いました。
自己中心的な祈りは聞かれないということですね。
主は、私たちが粘り強く求めて祈ることを願っておられます。
ロマンチックな祈りは聞かれないということでしょう。
冒頭のイザヤ書には「王に休みを与えないまで」とあります。
不正な裁判官は、生活にひどく困窮している寡(やもめ)がひっきりなしにやってきては嘆願するので、うるさくて仕方がないという理由からだったし、真夜中に人の迷惑も考えずに、あつかましくパンを借りに来た友人については、「友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」と言われたのです。
神はクリスチャンの執り成しの祈りを通して、この地に御業を遂行される
11:24そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。マルコ 11:24
祈り始めたことは、すでに聞かれたも同然ということを、このみ言葉は語っています。それはこれらイザヤ書、ルカ伝などのみことばのお約束と言う裏付けがあるからです。
EMバウンズの本に、千年期がなかなかこの地上に到来しない理由は、クリスチャンが幾世代にもわたって祈らないできたからだとありました!(祈りによる力)
神様は、私たちの祈りを通して、この地上で力あるみ業を行おうとされています。
ジョージミューラーの証
19世紀のイギリスに、資本金も、財源もなく、ただ信仰の祈りによって大勢の孤児たちを養ったジョージ・ミューラーというひとがいました。
日本の福祉にも、石井十次など大きな影響を与えた人らしいです。
このジョージ・ミュラーがある日、五人の友人の救いを祈りだしました。多くの月日の後、そのうちの一人が主のもとに立ち返りました。
それから10年後、今度は二人の友人が回心したそうです。
やがて四人目が回心しました。
その時すでに25年が過ぎていました。
しかし最後の五人目は、なかなか救われなかったのです。
しかし彼は決してあきらめませんでした。
しかし時は巡り、ミューラーはなくなりました。
彼の祈りは失敗だったのでしょうか。
いいえ、なんと五人目の友人が、ミューラーの葬儀の日に、回心して救われたのだそうです!
結局、ジョージ・ミューラーは、友人の救いのために52年間祈り続けたといいます。wow!
チョー・ヨンギ師(左側) 右:義母 チェ・チャーシル師
チョーヨンギ先生の書かれた本の中に、なぜ私たちクリスチャンが神様に執拗に迫る祈りをすることがないのか、その理由について、現代の忙しさが背景にあるとしています。
なんでも早いことが良いことのように思われ、時間をかけて祈ることが少なくなったためだと。
祈りを学ぶには急がないこと。神は急がない。神は私たちの必要な願いや夢ビジョンについて、私たちと交わりを持ちたいと願われている。キリストにあって私たちに与えられている素晴らしい恵がある。 Dr.チョー・ヨンギ The key to Revival.
私たちはどう祈るべきか?
何よりも主は、私たちが、あの寡(やもめ)の嘆願のように、また突然友人が来たからパンを三つかしてくれ!と真夜中に隣家の戸を叩き続けた人のように、魂の救いのために祈り求めることを願っておられるのです。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。