「おきよ。光を放て!」
今回は、イザヤ書の「おきよ、光を放て」というところから、ご一緒にみ言葉を学びましょう。
起きよ。光を放て。あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから。
旧約聖書イザヤ60:1
主に従うとき、必要は備えられる
教会ではみんなでいっしょに通読個所を決めて読んでいます。年明けは旧約聖書のエズラ記からです。今から2500年まえ、バビロンによって滅ぼされたイスラエルの再建に活躍したのが、このエズラという人です。
律法の学者だったエズラの上には、聖霊の油注ぎがありました。なぜなら彼には、廃墟となっていた首都エルサレムに戻って、再建のために必要なことを仲間に教える仕事があったからです。(エズラ7:9,10)
またその際、ペルシャの王たちにも心動かされて、再建に必要な経費の一切をも援助したことが書かれています。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。マタイ6:33.
わたしたちも主の御心に従うとき必要なものはすべて与えられます。ハレルヤ!
御国に自分を投資する
「神の国と神の義」とは、福音を宣べ伝えて行くという事ですね。教会を第一にするという事です。それは言われてするとかではなく、もう喜んでするのです。またそうなることを教えられていくことでもあります。いずれにしても、そうならざるを得なくなります。なぜなら主の御心は教会を通して、福音が宣べ伝えられ、魂の救いがあって、御国の前進があるからです。それは聖霊様の御心なので、どんな議論をも寄せ付けません。それが聖霊さまの御心なのです。
ですから永遠に残る務めのために、もし自分を種にたとえるなら、「自分」という種を投資しなければならないのです。「まず労苦した農夫こそ、収穫の分け前に与るのです」とあります。
聖書の中には、五つのパンと二匹の魚を捧げた少年のお話があります。そのわずかな当時のお弁当をイエス様のみ手に捧げると、五千人の男、その他数万人に食事を分け与えた奇蹟のお話が出てきます。また、一晩中働いても一匹の魚も取れなかったのに、ペテロがイエス様の求めに応じて、自分の小舟を提供すると、その後、舟が沈むほどの魚が捕れたとあります。
大豆をまけば大豆が、小豆をまけば小豆が刈り取られます。
「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない。人は、種をまけば、その刈り取りもすることになる」新約聖書ガラテヤ書6:7
チョーヨンギ先生は「なにもしないで、祝福だけを待つのは、貪欲の祈りだと」ある本の中で語っています。
非常に当然なことですが、まかないところからは、どんな刈り取りもないんですね。神の御国のために自分の時間を金銭を、また福音の種をまかないでは、決して、刈り入れることはあり得ません。
どうぞ、今年、永遠の御国に投資しようではありませんか。
十一献金、感謝献金、そして礼拝に出ること。また祈祷会に出ること。祈祷会から神様は御業を始められます。本当に、力ある信仰生活を願うなら、祈祷会に出ましょう。しばしばその祈りの場で導きがヒントが与えられます。あたらしい洞察がやってきますよ。
また、教会のいろんな奉仕に励みましょう。以前、奉仕の分担を決めましたが、コロナでとん挫しています。どうでしょうか。見直してみて、礼拝に出るだけではなく、自分にできる奉仕を喜びをもって、宮にお仕えできるのですから、積極的に参加してみてはどうでしょう!
主はそのような御国に投資する人に祝福を注がれます。
そして、み言葉の種をまきましょう。涙と共に福音の種をまきましょう。そして、再臨がまだなく、この年の終わりを迎えるなら、今年のクリスマスまでには、私は今年~さんを救いにお導きすることが出来た~~さんを洗礼へを導くことが出来たと、どんなに感謝な一年になることでしょうか。
すべてはエルサレムから始まる
エズラは御国のために投資しました。
具合的には、エルサレムの再建です。
そのとき、天からの注ぎと一切の必要な備えが与えられたのです。
エルサレムは神がその聖なるお名前を置くために選ばれた特別の場所です。
世の終わりの時代は、ますますこのエルサレムが中心となって世界が動いていくでしょう。
エズラに注ぎ(アノインティング:神の力の油注ぎ)があった理由はエズラがエルサレムの再建のために、何と?どうしたからだと書いてありますか?
新改訳聖書では「心を定めていた」~つまり決心していたと訳されています。
主の御心に沿う、みこころにかなう事業のために自分を捧げるために、決心していたのです。そのエズラの心に、主は聖霊の油を注がれたのです。
そして、ダビデが王だった時代には、実際に、周辺国が制圧されて、諸外国の王たちも主を賛美するようになったことが詩篇などに書かれています。それはおどろくべきことです。
そして、まもなくやってこようとしている千年王国の時代には、教会を通して、世界を治めるようになると聖書は預言しています。そして、その時の世界の中心地はエルサレムです。ですから、聖書はエルサレムを祝福するものが祝福されると教えているのです。全能の神はそこに御自分の聖なる御名を置くことを定められたからです。そして、初代教会もエルサレムから始まりました。
教会は真理の柱、また土台
聖書は、教会を真理の柱、土台と呼んでいます。それは凄いことを言っています。イエス様は「私は真理である」と言われました。ちょうど世界がエルサレムを通して治められていくように、この世の終わりの時代、神様はその御心を行うために、教会を世界中に持っておられるということなのです。
神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。 3:16確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
「キリストは肉において現れ、
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた」。第一テモテ 3:15,16.
福音のセンターは教会です。ちょうどエルサレムに御心を留められたように、主は、教会に御心を止めておられるのです。そこに神様の御心があるからです。
その教会を軽んじたり、侮ったり、軽くあしらうなら、聖霊に対する反抗になってしまうので祝福はなくなることでしょう。なぜなら、そこに聖霊の注ぎがあるからです。神様はこの終末の時、教会を通して福音を全世界に広げておられるからです。
このエルサレムの教会から始まった福音は、その後、世界中に広がって「諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」と書かれています。当時の福音の広がり方には、驚くべきものがあったと思われます。それは聖霊さまのお働きによるものだったからです。
このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。テトス 2:14
起きよ。光を放て、と主は言われます。
このイザヤ60:1のみことばは、今年の私たちの年頭のみことばです。英訳のGNT:グッドニューズバイブルでは、「起きよ。エルサレム!」と訳されています。
Bible fun for kids から
エリヤの時代にツァレファテというところにいた寡の人は、預言者エリヤの求めに応じて、最後の一握りのパンと水を与えたお話が旧約聖書に出てきます。
その当時、三年半の大飢饉がその地方を襲っていたときでした。
日照りが続き、家畜も人も疲弊して、食料がなくなり、最後の一握りの麦粉でこさえたパンをたべて子供と心中するところだった。そのとき、エリヤが現れて、その最後の一握りのパンと水を下さい、というのです。
しかし、この時、この女の方の心の中に、不思議な希望が湧いてきました。求めに応じて、その人はエリヤに最後のパンと貴重な水を与える。すると、その地に続いた日照りが終わるまで、家にあった器の中の小麦粉は、食べても食べても無くならないという奇蹟が起こったのです。
まかないところから刈り取りはない。御国のために自分の時間を金銭を、また福音の種をまかないでは、決して、刈り入れることはあり得ません。
おきよ。光を放て。エルサレム、そして教会!
どうぞ、主の栄光を輝かせていく一年に致しましょう。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。