聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「平安を得る秘訣」

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旧約聖書ヨブ記とは、古代のヨブという人物にある日突如として災難が降りかかり、息子娘らは死に絶え、一切の財産を失い、ヨブ自身は謎のはれ物に全身が冒されて、死を望むが、死すらからも見放されてしまうという悲惨極まりない人の物語です。彼は当時、その地方での随一の大富豪でした。

ヨブ3:24-26*1.

それまでのヨブはすべてにおいて恵まれて、豊かな暮らしを楽しんでいた人でした。足りないものは何一つありませんでした。

しかし、それだからこそ彼の心の中には、ある種の恐れがなくなることがありませんでした。

結局、ヨブ記は、最後はハッピーエンドで終わるのですが、今日は、聖書の中から、私たち人間に共通してある心の不安ということについて学びましょう。

聖書が教える人の心の不安とその解決

人は初めの人間アダムとエバ以来、何かを失うという事に対する恐れを心の内に持っています。

明日への不安

ヨブが第一に恐れていたのは明日のことでした。ヨブは明日を恐れていたのです。「恐れていたことが襲い掛かった」(新改訳聖書)と彼は言っています。私たちは時間と空間という制約の中で生かされています。ですから明日に何があるのかについては知ることが出来ません。わからないから不安なのです。

しかし、聖書は一ページの天地創造、世界の起源から始まって、この世の終わりまで一貫した歴史を記す本です。つまり私たち人間がどこからきて、どこへ向かっているのかについて語っている本です。

私の時は、御手の中にあります。敵の手から私を解き放してください。私を追ってくるものから詩篇 31:15 NIV.

上記はダビデ詩篇ですね。自分の命の危ない時に、ダビデは誰が自分の命を守られるのか、良く分かっていました。ダビデは神様に自分の時をお任せして安心しました。

そして、イエス様は十字架について死んだが、よみがえって今も生きている神さまです。だから信じる者は恐れる必要はないのです。このお方に自分の時をお任せすればいいのです。

二つ目にヨブが恐れたことは何だったでしょうか。

罪責感からくる不安(恐れ)

5節。ヨブは多分、毎日、神に対して恐怖心を抱いていたのかもしれません。私たちはお互いに、時々、おそれの動機から人と接することがあります。優しさを演技して、自分を守るために、恐れからくる動機を隠しながら話したり、振舞ったりします。どんなことをしても、このような罪責感や後ろめたさからくる人に対する恐れと不安は無くなることがありません。この不健全な感情は私たちの心をむしばみ、アルコールやドラッグや不健康な生活へと追いやることがあります。そして寿命をも縮めるでしょう。

しかしこのことについて聖書は何言っているでしょうか。

10:22心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。へブル10:22.

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エス様の十字架の上で流された御血潮は私たちの心を潔めて、罪責感から解き放ってくださいます。それは神様が人類のために無償でお与えくださった救いのための贖いの代価だからです。

旧約聖書の時代には本当にかわいそうだと思いますがおびただしい数の羊や牛が殺されて、犠牲になって罪の償いがなされました。牛は屠殺場にひかれていくとき涙を流すというではありませんか。子羊は、ペットにもなるような賢い動物です。天国にはたくさんの牛や羊がいるのかもしれません。

しかし、いまはもうその必要はなくなりました。

なぜなら2000年前、神の御子であられるイエス様が十字架の上で流され、ただ一度の血が、すべての人のために流されたおかげで、天の父なる神さまは「もう十分だ」。そう言ってくださったからです。

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それ以上何一つ加える必要はない。いけにえは、その時、廃止されました。

自分の行いではなくて、自分の修養とかではなく、ただイエス様の御血によって天の父なる神様は満足されたからです。それ以外のことは悪いことです。ただただ感謝しましょう。

今、「こころに抱いた悪い思いからイエス様の御血で清めて下さい。」そう祈ろうではありませんか。イエス様の尊い御血によって天の神様は私たちの邪悪な良心を潔めて下さるのです。神はすぐに潔めて下さいます。

三つ目にヨブが抱いた恐れ不安は何だったでしょうか。

無目的からくる恐れと不安

見捨てられ不安というのがあります。また愛されたい症候群というのがあります。原因は愛されていないのではないかという恐れ、また誰かを愛する対象のない、だれかを愛する自信が持てないところから生じます。自分は無価値な人間なんだという不安感から来ます。

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猫でさえ捨てられまいとしてしがみつくのです。

先日、鹿のファミリーを見かけました。一番うしろから走ってくる元気な一回り小さい小鹿もいました。群れに属しているという安心感が鹿にもあります。

しかし聖書はなんといっているでしょうか。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ 15:13

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新約聖書にでてくる使徒パウロという人がいます。

彼は激しい迫害や誤解の中を突き進んだ人です。でも最後まで人を愛すること、神を愛することをやめませんでした。

その理由は、自分の心のうちに注がれた神の愛があるためだったのです。

誤解や迫害にも負けませんでした。たくさんの献金を集めてエルサレム母教会に運びました。しかし聖書は最後、その多額の醵金がどうなったかについては、何も述べてはいません。彼の最後は、皇帝ネロによる処刑でした。60を越えた老体で冷たい牢獄は堪えたでしょう。

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。ローマ5:5

しかし、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているのです。

卑屈にならずに、投げやりにならずに、神の愛があるから、私やあなたは貴いものであることを信じましょう。

そしてクリスチャンには救霊という貴い務めがあります。

その使命のためにクリスチャンは生かされているのです。生きている目的がそこにあるのです。

四つ目にヨブが恐れ不安に感じたことは何だったでしょうか。

死に対する恐れからくる不安

ヨブは盛んに「死にたい死にたい」と言いました。しかし逆を言えば、死を恐れていたので、いっそ死んで楽になりたいと考えていたのでしょう。多分、実際に死ぬ時が来たら、慌てふためいたのではないでしょうか。

このように人は実際は自分の死について考えようとはしないものです。「死?俺が‥」「冗談でしょ?」「縁起でもない」「まだまだ死なないよ。」

クリスチャンである私たちは天国のことを今日、何回考えましたか?と問う牧師がおられます。復活祭も近づいてきていますが、きっと天国は素晴しいところでしょう。クリスチャンはそのことを知っています。でもクリスチャンが天国を夢見るのは、エス様が十字架に死んだが、三日目に墓から甦って、信じる者に、住まいを準備してくださっているからなのです(ヨハネ伝)。死を乗り越えたお方イエス様によって信じる者は死にも打ち勝ちました。ハレルヤ!だから恐れはありません。

エスも‥‥ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。へブル2:14,15.

今回は四つの恐れからの救いと神様から戴ける平安について学びました。

明日への恐れ。罪意識からくる不安と恐れ。無目的という恐れ。そして死への恐れと不安。聖書はこれら一つ一つに対して明確な答えを与えてくれています。

平安を得る秘訣はイエス様の内にすべてあるのです。

エスキリストを心にしっかりと受け入れて、平安をもって望みを抱いていきましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:3:24わたしの嘆きはわが食物に代って来り、
わたしのうめきは水のように流れ出る。
3:25わたしの恐れるものが、わたしに臨み、
わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。
3:26わたしは安らかでなく、またおだやかでない。
わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る。