聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「からの器を準備しましょう」

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ジョン・ベイカーという方は、自分を変えるさまざまなプログラムに挑戦したのですがどれもうまくいかなかったそうです。彼は重度のアルコール患者でした。

わたしはエジプトの国から、
あなたをつれ出したあなたの神、主である。
あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。詩篇81:10.

彼は自暴自棄になって、自分は神様から愛されていない、何をやっても上手くいかないだめな人間なんだという猜疑心でいっぱいになりました。しかし最終的に、彼が見出したものは、自分の人生に、生活に、もう一つ何かいいものを付け加えて変えようとするのではなく、彼はこう書いています。

「私は自分の手の付けられなくなった生活、命、人生を別のものと取り換えることが必要だった。私は自分の古い命を神に明け渡さなければならなかった。そして神様に自分の人生を導いていただく事だった。自分に死んで、キリストに毎日をお任せした時、変化はやってきた。」

ジョン・ベイカ

私はあなたの神

「私があなたの神、主である」とありますが、その意味は私たちが神のご主権を認めていく、という事です。つまり、神は私の主であり、私はそのしもべだということです。でも、ときどき、それが逆転してしまって、私が主であり、神さま、私の願うようにしてくださいよ、さもなくばいうこと聞きませんよ、となりがちです。

ハ・ヨンジョ先生は、もし神さまが、あなたの口に鉤をかけられたなのなら、早いとこ、逆らわないで従いなさい。そのほうが得ですよ、みたいなことを書いています。アーメンですね。

昨年は、私たちにとってどんな年だったでしょうか。

私を通して、魂が救われたでしょうか。私は神の栄光のために何をしたでしょうか。もし神さまの御心に従うことを心に決めたのなら、私たちの生活の隅々に神様の御心が実現するように願い求めなければなりません。

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エリシャのからの器

 4:3彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。 4:4そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。 4:5彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。 4:6油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。旧約聖書列王記第二 4:3‐6.

その昔、旧約聖書にエリシャという預言者が登場します。このエリシャが自分に親切してくれた寡(やもめ)の女の方に、恩返しをするという場面ですが、貧しいその婦人は死んだ旦那の借金の肩代りに自分の子供を取られそうになりました。エリシャはからの器を持ってくるようにいいます。次から次にからっぽの容器がくると、器から油を注ぐ。またそれを繰り返す。隣近所から鍋やらやかんやら持ってくるのですが、それもなくなると、油の注ぎは止まったというお話です。油の代金で家族は救われ、そのあと食べていけたというお話です。

これは何を意味しているでしょうか。

器とは熱意

それが意味しているのは主への期待です。それはまた熱意です。そうなればいいなあ、くらいの簡単な願いではありません。熱い願いですね。熱い願いがないと魂は導かれないと思います。昨年はとてもいいクリスマスを主は用意してくださいましたが、実は、神さまは、もっともっと祝福しようとしてくださっていたと思います。器とは、主への期待、熱意です。

熱意が小さければ、その程度で終わるんですね。

昨年、熱意があったでしょうか。それは、この地上で、主の御心がなされていくために必要な要素だと思います。

どうして熱意がないのでしょうか。

それは、主のこと、教会のこと、御心のこと以外のことで心がふさがれていたからです。

昨日の元旦礼拝では、ハガイ書を引用しましたが、多くを期待したが結果はわずかだったとあります。その原因は、主の宮のことではなく、自分たちの家のことばかりで心が煩わされていたからだとありました。ですから、まわりまわって、自分の家の経済にしても健康にしても、霊性にしても恵まれないのだ、と教えているのです。

 しかし、その聖なる願望、御心を成し遂げたい、天においてみこころが成るように、この地上でも行われますように、と。その願いは主に自分を明け渡した人に与えられるものなのです。主の祈りの出だしは、「天にいます私たちの父なる神さま。御名があがめられますよう」というところから始まります。その祈りが意味しているところは、さきほどもあった、主権者は神様でいらっしゃるという事を認めます、ということを告白しているのです。

涙とともに種蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくるようになる詩篇 126:5

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器とは

今回も楽しいイブ礼拝の夜を過ごせましたね。感謝でした。今回のクリスマスシーズンに、「クリスマスって?」というトラクト(パンフレット)を400枚頼んであちこちにまきました。インータネットでもお知らせしたり、一晩だけでしたがフェイスブックでも広告を出しました。コロナ下で、みなさんトラクトをもっていって、それなりに、声をかけて下さったと思います。

そして、このクリスマスの機会にご自分の方から思い立って来て下さった方々がおられましたね。それは、私たちの情熱に対して、主が答えて下さったからです。

しかし、撒いても、撒いても、だれも答えてくれない。声をかけても声をかけても、嫌な顔をされてしまう。どうしてですか?本当に悲しくなってきて、主よ~と祈る。それが大事なんですね。それが器なんですね。

コロナ下で突然訪ねて、玄関先で帰ろうと思ったのが、どうぞどうぞお入りください。そんなお宅がほかにもありました。少しの時間だけと言ってお邪魔してお誘いすると、行きますとのご返事。ヤッターと思いました。でもその後、行けないとの連絡で、これはどうしたものかと一瞬思いましたが、マルコ11:23,24のみことばを思い出して、最後まであきらめないで希望を告白し続けました。そうしたら、ほんとうに来て下さったんですね。ハレルヤ!

その晩は、その方にとって最善の時でした。「御心の時」とも言います。でも、聖書では、最善の時とは、今日であり、今なのです。明日ではありません。

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。Ⅱコリント6:2

どうぞ、皆さん。祈って下さい。

そして、からの器を備えて下さい。どこに?皆さんの心のうちにです。

「あなたの口を大きく開けよ」と主は言われます。

撒いても撒いても。誰も無関心。悲しくなることが必要です。

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感謝だったこと

先日、お久しぶりで阿寒湖畔のTさんと電話でお話しをすることができました。そのとき、Tさんは困難な中で一つ無念だったことがある。それは亡くなった身内を信仰の救いにお導きすることが出来なかったことだというのです。ときどき、クリスチャンといっても身内を導く事すら無関心の方がいます。でも、Tさんはそういうのです。そのとき私は、はるか数十年前の時の出来事を思い起こしました。古い旧会堂のクリスマスでのこと、ご家族そろって、洗礼着を来て、そろって受洗されたときのことをです。「古い会堂のとき、ご家族で洗礼を受けたじゃないですか。そのとき一緒に受けましたよね」と私。「そうですね。今わの際にどうだったかわかりませんものね。最後の間際、主よ~と言って召されたかもしれませんね」とTさん。「そうですよ!」。

私はその電話の時、Tさんの信仰姿勢のゆえに感謝な気持ちになりました。

多くの人は、ほとんどの人は悲しいことや自分が死ぬことについてなど話したくもないし考えるなんてとんでもない、と。そんな否定的なことなんかじゃなくて、もっと未来に目を向けようと言います。しかし、主は悲しむものは幸いですと言われます。牧師先生がお若いころ看護師だった時、外科病棟で、「先生~助けて~死にたくない~」と言って死んでいく様をなんども見たとよくお話されていたことを思い起こします。死の前に人は裸です。イエス様信じて永遠の命への備えをしましょう。

 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。