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「使徒パウロの誇り」

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今日は、ご一緒に、パウロの誇りというテーマでこの個所を見ていきましょう。

ローマ15:17~21.((15:17だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。 15:18わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、 15:19しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。 15:20その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。 15:21すなわち「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。)

パウロの誇りとは

①キリストが私を通して働かれたことを誇る

パウロの誇りとは何だったのでしょうか。「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません」とあります。よく私たちは褒められると、「いいえ」「それほどでも」とかいいますが、その心理は自分の力でしたと思っているからです。しかし、ここでパウロが誇りとすることとは、自分がした何かのこと~自分がキリストのためにした何かについてではなく、キリストがパウロを通してなされたことについて、パウロは誇ると書いているのです。

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。ガラテヤ 6:14

しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。第一コリント 15:10

聖霊のお働きを誇る

パウロがここではっきりとキリストイエスにあって誇りを持っていると言うことができた理由は、19節にあるように、その働きの原動力が聖霊さまのお働きによるものだったからです。もしパウロが自分の知恵や計画によって福音の働きを推し進めてきたのなら、ここで、彼はこのようには書かなかったことでしょう。しかし、パウロは、自分の力や知恵や行動力によって何かが成し遂げられたことを誇っているのではなく、自分を通して働かれた聖霊さまの御業だからこそ、誇ると書いているのです。パウロはとても優秀な人でしたが、彼ほどの人が、自分の力によるのではなく、聖霊さまのお働きに自分を明け渡したのであれば、わたしたちはどうあるべきでしょうか。 

自分を聖霊の器として明け渡すために必要なこと

107:10暗黒と深いやみの中にいる者、苦しみと、くろがねに縛られた者、107:11彼らは神の言葉にそむき、いと高き者の勧めを軽んじたので、107:12主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。107:13彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、107:14暗黒と深いやみから彼らを導き出して、そのかせをこわされた。107:15どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。107:16主は青銅のとびらをこわし、
鉄の貫の木を断ち切られたからである。詩篇107:
10-16.
①聖書をよく読むこと

先日も、「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです」第二ペテロ2:19のみことばから、たとえクリスチャンであっても世の陣営に片足を入れている限りは力あるクリスチャン生活を送ることはできないということをお話ししました。この詩篇107篇のみことばもそのことを教えています。「さとしをあなどった」とあります。信仰者が力のない原因は、第一に聖書をないがしろにしているからです。信仰生活に慣れてくると、もうわかったと思い込んでしまって、聖書をぞんざいに扱ってしまいがちです。

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中国の宣教師だったハドソンテーラーは、大陸の奥地にみ言葉を携えてパウロのように最後まで宣教の働きを続けた信仰の勇者でした。上(左)が若いころのハドソンテーラーで下(右)が後の日のテーラーの姿です。当時の船は帆船でイギリスから喜望峰を経て東南アジア、上海へと命がけの数か月に及ぶ大航海時代でした。車もなく徒歩などでくまなく中国内陸の奥地を目指す旅はかなり疲れたことでしょう。しかし夜になると旅先の宿屋の一室をカーテンで仕切るのですが、どんなに疲れていても、ろうそくの灯を頼りに一時間ほど聖書に没頭する彼の姿がいつもあったといいます。み言葉を熱心に読んでいるでしょうか。むさぼるように読めという人もいます。私などは本当に愚か者で、みことばを熱心に読んでこなかったことを最近特に後悔しています。

コツはノートと瞑想、黙想です。

できれば読むだけではなく、気になるところがあれば、それをノートに記します。そうすると不思議に思索が開けてきて、多分それは聖霊様のお働きでしょう。いただいた恵が広がっていくことがよくあるのです。皆さんもぜひやってみてください。みことばを、瞑想、黙想することが大切ですね。魂の中にみ言葉の世界が広がって、またはしみ込んでくる思いが致します。ある先生は、朝の散歩の時間に暗唱成句をするそうです。おいくつになられても、主から受けた恵に忠実である御姿に励まされる思いがします。わたしたちも、礼拝の集いの中で暗唱成句を言い合ったりするのもいいですね。それが霊の交わりです。

詩篇107篇12節にあるように、み言葉を軽んじるとクリスチャンの歩みがよろけることがあります。そうするとサタンが来て、疑わしい思いを投げ入れてきたり、信仰生活の前進を妨害してくることが起こり得ます。

13節。「この苦しみの時、彼らが主に向かって叫ぶと‥‥。」私は主に従いたいです。主よ、私を愚かさからお救い下さい、と言って祈る時、主は、苦悩から救い出してくださいます。枷(かせ)を砕いて下さるのです。主に従おうとするのを邪魔してきた悪魔の枷(かせ)が破壊されるのです。

パウロはそんなことを何度も何度も体験したのではないでしょうか。そして、ついには、自分の力ではなく、聖霊様のお働きにお任せします、と言って聖霊の器へと自分を捧げることを訓練していったのだと思います。

②異言の祈りを用いる

聖霊の器として自分を明け渡していくには、やはり、異言の祈りが有効です。なぜなら異言の祈りは自分でするものではなく、聖霊様のお助けによって、聖霊様に促されてする祈りだからです。練習してできることではないんですね。「パパパ」、「ルルル」とか、たわいもない発音ですが、どうしてそれが神さまからのものかというと、その祈りの中で心の思いが、確かに主のほうへとむけられていくからです。主の臨在を感じます。とかく私たちの意識は、自分を中心としたこの世界に縛られがちです。しかし、異言でいのると、比較的楽に、思いが神様のほうへと調整されていきます。ぜひ、異言の祈りを用いてください。この祈りは誰にでも求める人に神様が与えてくださる祈りの能力です。人は、霊・肉・魂ですから、異言で祈っていてもときどき世のことを考えていることがあるかもしれません。こんなんで本当に異言の祈りなのかな?と思わないでください。あきらめないで続けてください。

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話す第一コリント 14:2

異言を話す者は自分の徳を高めます、」第一コリント 14:4

文脈上、とかく異言が価値のないかのような解釈がされがちな個所ですが、決して、そんな意味でパウロはこのみことばを書いてはいません。奥義を語り、徳を高めるとあるではありませんか。しかし異言は用いないなら、ここに書かれてあるようなことにはなりません。異言は、「異言の伴う聖霊バプテスマ」ともいわれています。そう呼ばれる理由は、それを日ごとに用いるところにあります。聖霊に漬かるという意味ですね。英語ではソークといいます。soakです。一夜漬けの漬物があれば、十分漬かった漬物もあります。似ています。

もういちど20~21節を読みましょう。

エスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」。そして、こう言われて、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた。ヨハネ 20:21,22

パウロの誇りー私たちの誇り

パウロの誇り」、それは主に用いられることでした。どうか私たちを見た人がイエス様を見たというまでに、主の栄光を運べるようにしてください。父が私を遣わされたように、と。私を見たものは父を見たのであると主は仰いました。では、キリストイエスが私たちを遣われれば、私たちの内にキリストを見るのではないでしょうか。自分のよさとか、見栄えとかではなく、イエス様の御姿が見えますように。そう祈るのです。

お祈りいたしましょう。

 

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