「妬みによる救い」
「妬みによる救い」
こんにちは。
庭の家チャペルの牧師 伊藤と申します。
今日は、ご一緒に「妬みによる救い」というタイトルでローマ書11:11‐15を学んでみましょう。
- 妬みという訳について
- この箇所は世界の終わりに起こるリバイバルのことを言っている
- さて、翻って見て、自分のクリスチャンとしての歩みはどうだろうかと
- ある牧師の娘さんのこと
- 姉の救いのこと
- ①祈りに目覚める
- ②み言葉を学び続ける
- ③証しを続ける
ローマ11:11‐15*1
妬みという訳について
11節に「ねたみ」とありますが、あまりいい響きがしません。でも、新改訳聖書で「ねたみ」と訳されているこの箇所は口語訳聖書では「奮起」と訳されています。つまりここで使われている妬みということばは、悪い意味ではなく、一度は自分たちユダヤ人らが拒んだ福音を、逆に異邦人たちが受け入れて、その結果、神さまからの祝福を戴いているのを見て、あとから思いを変えて、奮起して、一度は拒んだ福音を受け入れるようになるということです。
この箇所は世界の終わりに起こるリバイバルのことを言っている
そして、この箇所が言っていることはそれだけではなく、12節、「彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」とあって、それはそのあとの15節にある「もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか」とあって、12節の「すばらしいもの」とは、15節の「死者の中から生き返ること」のことであり、パウロはここで、ユダヤ人たちの集団的な回心が、そののちに続く世界規模での集団的な回心、リバイバルのきっかけになるとの預言的なことを言っている箇所なのです。
その世界規模のリバイバルは、異邦人クリスチャンたちがイエス様を救い主として受け入れて、彼らが祝福された生活を送っているかを見て、ユダヤ人たちも、「自分達もイエス様を信じたい」といって妬みに燃えて、奮起するという事によるものです。
さて、翻って見て、自分のクリスチャンとしての歩みはどうだろうかと
榊原康夫氏は著書の中で、今日のこの箇所について一つの問題を提起しています。「果たして私たちの信仰は、周りに人達に自分たちも信仰を持ちたい!クリスチャンになりたいっ!」という奮起、ねたみ心を起こさせ、「自分にはない、あの人が持っているものを自分もほしいっ!」という願いを起こさせるほどのものだろうか?ということです。
わたしたちはどうでしょうか。
私たちの日頃の歩みを周りの人たちが見て、うらやましがられるような生活をしているだろうか、と言うことなのです。
ある牧師の娘さんのこと
知り合いの牧師さんのお嬢さんがおられます。この方はいまある国で力ある説教者、牧師の奥さん、母親としてご活躍中です。私は以前にもこの方とお会いしたのですが、そのころはまだ高校生でした。教会のお二階が牧師宅で、日曜日の朝、すれ違ったときにごあいさつしました。とても感じの方でした。でもそのまま準備万端で!どこかに遊びに行ってしまわれたようでした。詳しいことはわかりませんが、牧師夫婦である、そのお父さんお母さんとって大きな悩みだったようです。おふたりはその娘さんのために熱心に祈られました。聖書にも教会にも信仰にも何の関心もないことに心を痛めていたからです。
しかし、今その方は、全く変わってしまわれました。アメリカの大学へ行って、そこでいい出会いがあって、いまでは、聖霊のお力に満ちたお話をされる説教者です。私の友人のその牧師さんは、「いや~〇〇(娘さんの名前)がね~。以前には考えられないことが起こったよ」と話されていました。
しかし、そこには長い間の牧師夫婦の祈りと証しがありました。
姉の救いのこと
私には4歳離れた姉がいました。男勝りで破天荒な姉でした。姉も聖書とかキリスト教とか何の関心もない人でした。夢をもって18歳で上京しましたが、レベルの違いに悩んで、目指した道で挫折しました。結婚もしましたが、こどもは設けることもなく、結婚生活も上手くいかず、かなりの精神的な落ち込みを経験することになりました。しかし、姉は亡くなる一年まえのこと、明確な信仰の回心があって、イエス様のもとに帰って来ました。
昭和51年 よろこびの泉誌に載った伊藤弘子牧師
でもそこにも母の篤い祈りと証しがあったんですね。ある時は、家事をも忘れるほどまでの熱心さでした。小さかった私はそんな母の姿勢に不満な思いを抱いたものです。でも、振り返ると、それでよかったのかもしれないとこの頃ようやく思えるようになってきました。姉のために。姉の魂の救いのために一生懸命だったわけですね。では、わたしたちはどうでしょうか。
人を惹(ひ)きつけるなんて、そんなの無理。何の魅力もない私に何が?と思えます。
いくつかのことを分かち合って、この学びを終えましょう。
今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。Ⅰヨハネ2:18
①祈りに目覚める
賛美と祈りをする
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。第一ペテロ 4:7
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。詩篇 34:8
ときどき時間をとって、知っている歌いやすい賛美の歌を歌って、異言で祈る。心が満ちてきます。それは何をするにしても、まず、霊のごはんで、原動力です。
②み言葉を学び続ける
世の終わりの反キリストの働きや、惑わす教えの風に対抗するために、みことばを学び続ける姿勢が大切になってくるようです。
③証しを続ける
たとえトラクト一枚でもいいですから、証しを続けるクリスチャンには力が与えられます。聖霊は従うものに与えられるのです。
今日の箇所は、来たるべき大リバイバルについての箇所でした。終末の混とんとしてきたこの時代に、聖霊の人を惹きつけるお力を受けて、主の来られる日に備えていきましょう。
お祈りをいたします。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:11:11そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。 11:12しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。11:13そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、 11:14どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。 11:15もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。