「だれでも私を愛するならば」
今回は、「だれでも私を愛するならば」というタイトルでご一緒に聖書を学びましょう。
愛される人
ここには、「だれでも」とありますが、「だれでも」とは特別な選ばれた人のことはではなく、私たちのように平凡なものが含まれています。
「私を愛する人は、私のことばを守ります」。
「そうすれば、私の父はその人を愛し」てくださるとあります。
以前に、ある著名な牧師のおはなしの中で、その牧師さんには子供が何人かいて、ある子どもはお願い事をすると快くすぐにやってくれるが、そうでない子もいる。親としては、言うことを聞いてくれる子のほうがかわいく思えるものであると。それは自然ですよね。
神様はすべての人を愛されています。でもそれとは別に、神さまの願われることに聞き従う人を神様は特別に愛してくださるのです。そのことを「その人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と著しています。
「愛される人に起こること」
この「愛されること」との関係で、主イエス様は15~21節で、あることを語られています。それは「もう一人の助け主」=聖霊さまのことでした。ですから、23節の「その人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住む」とは、信じる人の心の中に来て下さる聖霊さまの内住(ないじゅう)のことを話されているのです。
24節には「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守らない」とありますが、このみ言葉を読むと、自分が今までどんなに世を愛して、み言葉を愛してこなかったかということを反省させられます。聖書は私たちに「世をも世にあるものをも愛してはならない」と語りかけているからです。
2:15世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。 2:16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。 2:17世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。第一ヨハネ 2:15‐17.
ここでも「だれでも」(新改訳聖書)ともう言葉がもう一度出てきます。この「だれでも」とはクリスチャンである私たちのことではないでしょうか。たとえクリスチャンでも世を愛するなら、その人は救われてはいても、あのソドモとゴモラのときのロトとその家族のように滅びの淵:世の陣営に入っていると思います。
人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのである。第二ペテロ 2:19
クリスチャンであっても世の陣営にいる限りは、力あるクリスチャン生活を送ることはできないと思います。罪に勝てない。祈りができない。聖書を読みたくない。証しもできない。捧げることもままならない。いらいらしやすい。怒りやすい。落胆しやすい。異言も出てこなくなった。人の顔が気になる。それぞれにいろいろな弱さというものがとあると思います。
もしそうであれば、今日神の国の陣営に戻りましょう。御心を行うことに心は高鳴るようになるでしょう。
主に従うときには困難がある
先日、天国地獄のトラクトをもってポスティングに行きました。とても良いトラクト(パンフレット)です。何か目に見えないことが町内で起こっているかのようです。それほど福音が単刀直入に書かれているトラクトだからだと思います。
ある日、いつものようにこのトラクトをもってポスティングに出掛けようとしたのですが、なぜかその日は行きたくありませんでした。でもこういう日に限っていったほうがいいと思いなおして行くと、何軒目かで、入れたとたんに家から出てきてトラクトを突っ返されました。その方のお顔を見て驚きました。聖霊様に対する憤りだと思いました。そして心の中でハレルヤ!と思いました。その日ポスティングに行きたくなかった理由がわかりました。悪魔は生きたトラクトを入れさせまいとして妨害していたのです。
主を愛し、御国の陣営にとどまりつづけるには
わたしたちはどのようにして世を愛するものではなく、御国に忠実で主を愛する心の姿勢を持てるのでしょうか。またどのようにそれを維持していけばいいのでしょうか。
Ⅰ.自己満足に気を付けること 列王記第二13:1-6.
エホアハズという王さまは偶像崇拝に走ったため、生きるのがつらく苦しくなってきて、主に祈りました。すると主は助けて下さったとあります。しかししばらくするとまた元の偶像崇拝に戻ったとあります。
エホアハズ王は神の国とこの世:偶像とを天秤(てんびん)にかけていたのです。それが失敗の原因でした。
わたしたちはいかがでしょうか。心を一つにして主を求めましょう。
御国の兵士とならせていただきましょう。
Ⅱ.今日という日が、主との関係において特別の日だということを認めること。
今日は、昨日までの続きなのではありません。今日は主と自分との関係において特別な日です。昨日とは違う全く新しい一日です。この一日をどう使うかは私たち次第です。今日という特別なこの一日に心を定めて主を求めることが大切です。
Ⅲ.神様は従う者に聖霊のバプテスマを用意されています。それはただ異言を語るというだけの体験以上に、神様との親しい交わりのことです。
小林先生のお証
以前、私たちの教会にもよく来てくださったハワイの小林先生という方がおられました。この方は神様の御声を聞いて従った人でした。その秘訣は、主にお若いころ、御自分を一切主に捧げたことと、聖霊のバプテスマだったと思います。小林先生が育った家は、戦前のホーリネス教会の牧師家庭で、極貧に甘んじる暮らしでした。いつも継ぎはぎだらけの服で貧しい食生活でした。小さかった小林先生は大きくなったら絶対に牧師だけにはならない、お金を儲けると心に決めていたそうです。
信仰の転機
それでも一応の信仰だけは持っていた小林さんだったので、ある日、とある教会の牧師の奥さんがお亡くなりになって、その葬儀に参列されました。葬儀では、その亡くなった方が、いかに、どれほど主にお捧げして仕えてきたか、いろいろな方が入れ替わり立ち替わり立ってお話をされました。しかしその時が小林先生にとって転機となったのです。数々のお話を聞いているうちに、いかに自分がそれまで自己中心で汚れていたかということ、自分のことばかり考えて生きてきたのかということをいやというほど示されて、彼は泣いて泣いて鼻水と涙で床をドロドロにしてしまったというのです。周りの参列者たちは亡くなった人のことを思って泣いていると思ったようですが、そうではなく、悔い改めの祈りだったのです。そののち小林先生は祈りました。「神様。自分は牧師にだけはなりたくありませんでした。でもそれが御心ならば、私はお従い致します」と。そして先生はやがて献身の道を進んでいくのですが、ある日、聖霊のバプテスマを求めて祈り始めました。神さまは彼に異言の伴う聖霊のバプテスマを授けられたのです。彼は喜び溢れました。そして教会に戻って登壇し、そのことを報告すると、「そんな人はうちの教会にいては困ると言われて」、小林先生はその教会を追い出されたそうです。その後、先生は聖霊のお導きを受けてハワイのグレースバイブル教会の日本人教会の牧師としてハワイでお働きを続け、またロシア宣教を最後まで尽力されました。今から6年ほど前に召されたそうです。
小林先生は主のみ声を聴いて主に従う人でした。
誰でも私を愛するなら
「このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々である」使徒 15:26
どうして小林先生がみ声を聴いてお従いする人だったのかというと、このパウロとバルナバのように、御国のために自分のすべてを捧げた、御国の陣営に自分を置いたからです。
私たちはどうでしょうか。
「誰でも私を愛するなら」とありました。
その意味は例外なく、特別な信仰の強い人だからではなく、普通の私たちも含まれているとは思いませんか。主の御国の陣営に自分を置くならば、主は私たちを愛して、御声をかけて下さって、主の栄光のために用いて下さるのです。「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
お祈りしましょう。
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