聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「愛によって歩く」 

f:id:seishonoarukurashi:20210824173931j:plain

今日はこの個所から、愛によって歩くというテーマでご一緒にみ言葉を分かち合いたいと思います。 

 

 

ローマ14:13‐19 *1

 

裁きあわない 

前回は前のところから、飲食の問題などグレーゾーンの問題が扱われていました。あるクリスチャンは当時、一度偶像に捧げられたのち、市場に卸された肉を買ってきて普通に食べる。 しかし、別のクリスチャンたちはそれは悪霊に捧げられたものだから絶対に食べないという立場でやっていました。 食べる人は食べない人を見て、また食べない人たちは食べる人たちを見て、お互いに「あの人たちは何をやっているんだ」と言って裁きあわないように、高いところから見下すようなことはしないように、というパウロの奨めがありました。 

 

愛と知恵、知恵と愛 

f:id:seishonoarukurashi:20210824174419j:plain

ある日、遊びに行くと、近所の子の家に鉄人28号の大きくて立派なおもちゃがありました。びっくりして、欲しくなって、帰ってから親にお願いしました。親が買ってきた箱をワクワクして開けると、そこには友達の鉄人より小さくて貧弱な鉄人28号が入っていました。最初から友達のモノを見てなかったら、大喜びしたでしょう。でも、その鉄人は小さくて安そうで、幼心になにか自分が劣っているかのような、恥ずかしいような思いをしたことを覚えています。

 こどものことで難しいのですが、もしも、立場が逆で友達が持っている自慢げな鉄人が自分のよりも貧弱に見えたなら、もっといいモノをもっていることは黙っていてあげる。それは知恵ですし、愛と言えるのかもしれません。愛による知恵です。それができればの話です。ちょっと、子供には難しいことですね。

それは愛による言動か?

もしも、自分が知っていることや、持っている物のことで相手に恥ずかしい思いをさせるなら、それは愛による歩みとは言えず、自己満足のそれでしかありません。

でも、考えてみると、自分にも「なんであんなこと言ったんだろう」みたいなことがあったと思います。相手のことをおもんぱかるどころか自分のことしか考えていなかった恥ずかしい自分がそこにはいました。なんて自分は身勝手だったんだろうと、あとから恥ずかしくなります。そんなたくさんの失敗をして、いまでも失敗だらけです。 

「しかし、もしあなたの兄弟があなたの食べ物ために苦痛を感じている<彼の気持ちが傷ついている>のなら(もし彼が被害を受けているのであれば)、あなたはもはや愛によって歩いているのではありません。すなわち、彼に対して、愛の基準によって生活し、ふるまうことを、やめているのです。キリストがそのために死んでくださったのです!あなたの食べるものが、その兄弟を傷つけては(彼を傷つけるものとなっては)なりません。」15節。詳訳聖書。  

このように、わたしたちは知らず知らずに上に立って誰か見下してみたり、そういう意図はなかったつもりが、結果的にそうなって相手を傷つけてしまうことがあります。 

f:id:seishonoarukurashi:20210824180158j:plain

不親切な批評、嘲笑、理論、論争などは、弱い人々を、その良心の確信を無視して行動するような導き、その人のうちにある神のいのちを妨げるものとなるかもしれない。自分のもっている他人より大きい自由を見せびらかしたり、また他人にその良心に反して行動するように勧めたりしてはならない。FBマイヤー。日々のみことば。 

 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。14:15
16,17,18を読みましょう。 

18節。「キリストに仕える人」とありますが、具体的には、教会はキリストの御体ですから、それは教会にあって、そのような姿勢を大事にするということですし、またそれが神に喜ばれ、教会を建て上げる事になる、と言っています。 

そしてそのような牧会的な姿勢というのは教会に集う人からも広く認められるのだとあります。 

 イエスのように

f:id:seishonoarukurashi:20210824180633j:plain

この姿勢は、イエス様のうちに見られるものです。 

主は、栄光を捨てて、人間としてこの世に来られました。 

十字架上にかかった時も、そんなひどいことをする人たちに、「お前ら~!べらんめ~」と言って、天から12軍団を直ちに来させて、虫けらどものような人間どもを直ちに裁くこともお出来だったのですが、そんなことはされずに、ただ、ただ、相手がわかるように十字架のことばで、弱くなって、私たちの罪咎、病を負ってくださいました。 

 パウロの親心

 偶像に捧げた肉だから食べない飲まないという人たちは、もっと自由な信仰生活というものがあるということがわからないでいたのでしょう。パウロの教える「強い人」としての信仰の自由の中に歩める生活があるという教えを、聞いてもまだ理解できないでいたようです。 

でも今あるところで、自分なりの信仰をもって歩もうとしていたのですから、パウロは、そんな人たちのことを「弱い人」と呼んで、無理なことは決してしないように、いまあるその人の信仰を踏みにじるようなことは決してしないように。相手に恥ずかしい思いをさせるようなことはしないでほしいと。 パウロは親心をもってローマの教会を心配して書き送っています。 

私たちも、そのような愛の姿勢をもってキリストの御体なる教会を建て上げていきましょう。 

 

f:id:seishonoarukurashi:20201216122008j:plain

 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

*1:14:13それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。 14:14わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。 14:15もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。 14:16それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。 14:17神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。 14:18こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 14:19こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。