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「教会の建設とマイリバイバル」 

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今回は、教会の建設とマイリバイバルというテーマでローマ書14章の残りの部分をご一緒に学んでみたいと思います。

新約聖書ローマ書14章20~23*1

お互いが牧師のようなこころもちで

前回は、たとえ自分が知っていても、または所有している何かであっても、相手のためには時に黙っていることも必要だということを学びました。

それはキリストの体である教会を建て上げていくうえでとても大切な牧会的な配慮だということも教えられました。

今回の残りの20節~23節は、この14章のまとめの部分です。

ではもう一度15節を見てみましょう。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。 

キリストが十字架で死んでくださったほどの人

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私たちは時々、あんなヤツ!と思うような人のことを、悪く思ったり批判したりしがちです。しかしこの15節は、そんな快く思えないような人のためにもキリストは十字架で死んでくださったというのです。それは私たちの人を見る目を変えます。

自分のためだけではなく、どんな人のためにもキリストは死んでくださったほどの人なんだという目で人を見るということです。

それほどの人たちを些細(ささい)な食べ物くらいのことで滅ぼさないでくださいというのです。

当時のローマの教会に集う人たちの中にあった内部事情

当時のローマの教会のなかには食べ物のことや特別の日を守ることなどをする厳格なグループがありました。しかしパウロが「強い(信仰の)人たち」と呼ぶもう一方のグループの人たちは(それはパウロ自分をも含めてでしたが)あまり規則には縛られていませんでした。たとえ市場で偶像に捧げたお肉でも、今日でいえばお酒でも、すべての食べ物はかつて主がきよいと教えられたので、それは自由です~そう振舞っていたのです。

でも、たとえ正しくても、ただ自分がそう言いたい、そうしたいからという理由だけで振舞うなら、それはただの子供にしか過ぎない、そしてそういう配慮のない生き方が神の御業を破壊する(20)と言っています。神の御業とは、教会の建設です。また福音が宣べ伝えられて行くということです。

大切なこと~神様に喜ばれたいという献身の思い

 この厳格なグループの人たちは、そうすることによって神様に喜ばれたい、神の栄光のためにそうしようとしていたと思われます。

それなのに別にいいじゃんと言って、自由だよって言って、その人の良心を無視して食べろ食べろといって勧めたり、面前でお酒を飲んだりするなら~そしてそう信じていたのに言われるままに、そうかなあ、もういいやっ!て飲ませたり、食べさせたりさせるとき、何が起こるでしょう。

パウロが言う厳格な「信仰の弱い人」たちは、信じて従おうとしてきた折角の姿勢を、人目を気にするあまり、捨ててしまうようなことにならないだろうか?

23節ではそれを「信仰から出ていないことはみな罪」だとあります。そのような神様に栄光をお返ししていきたいと願っているそれぞれのクリスチャンにとって罪となる=躓きとなることに違いがあるというのです。

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。

箴言 29:25,26 

わたしも躓いているところはないだろうか

私たちは人の顔を恐れやすいものです。人を恐れると不正直になってしまって本心とは違う行動をとってしまうことがあります。

このみ言葉を通して考えてみたいと思います。たとえ「自分は信仰が強いほうだ」と思っていても、躓いて不本意ながら飲み食べてしまった信仰の弱い人のように、自分がいままでやってきたことが御心だと思うんだけどまあいいや、と言って初めの頃のような信仰を今はもうもっていない、そんなところはないでしょうか。この機会に吟味してみてはいかがでしょうか。

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マイリバイバル

今、コロナのことで世界中で教会が閉鎖に追い込まれているという情報がありました。おどろきです。出席者は激減し、献金はなくなり、スタッフたちは解雇され、うつを患う牧師が増えているというのです。

ちょっとしたことが原因で、それまでしてきたことをやめてしまう~たとえば伝道しなくなると信仰者からは喜びが消えていきます。どうでもいいことを言い合うようになります。信仰がつまらなく思えてきたり、感動が消えたりすることはないでしょうか。

ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。へブル10:25

 もちろん、オンラインも感謝します。「どうか神様私の信仰に喜びを新しくしてください。」そう祈りましょう。「信仰から出てない考え方:つまり御心と信じて以前は従っていたことで今はしなくなってしまった、そんなことがあるなら、どうぞもう一度、初めの愛に立ち返って、「私の歩みを新しくしてください。」そう祈ろうではありませんか。

「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。」22節。

それぞれの信仰の在り方で、それはそれで結構なことです、でもそれはそれぞれの確信でいいでしょう。パウロの言いたかったところはそんなところでしょう。

そして、自分はだれかを躓かせてしまったようなところはなかったか。そして自分も躓いたままのところはないか?翻って自分の信仰を点検するときに、躓いて、そのままでいたところがあれば、もう一度、修復させてください。

もう一度新しくしてください。祈りましょう。

「信仰から出ていないことはみな罪です」。

こころ燃やされて主についていきたいです。

お祈りしましょう。

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:14:20食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 14:21肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。 14:22あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。 14:23しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。