聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「なぜ神の為に生きるのか」Ⅱ

f:id:seishonoarukurashi:20210805172400p:plain

今回も「なぜ神のために生きるのか」ということについて考えてみましょう。

 ローマ14:7-12*1

 神のために生きる理由

なぜ神のために生きるのか? 

第一の理由は、主が私たちを滅びから救いだしてくださったからです。 

ふつうは自分の人生なんだから好きなように生きるのが当然と考えます。

しかし、唯一の神との和解なしには、ほんとうに人は幸せになることはできず、最後は孤独と死、そして永遠の裁きであると聖書は説いています。

なぜ神のために生きる必要があるのでしょうか? 

f:id:seishonoarukurashi:20210331131500j:plain

放蕩に身をやつして、ボロボロになった次男の帰りを、今か今かと待ちわびていた父のように、天の父なる神さまは、私たちのことをも日々大切に思ってみていてくださっているからです。

そして、私たちのほうから、求めるならば、この神さまは信じる者に御心に沿ったもっと良い生き方をさせて下さろうとしている良い天のお父さんだからなのです。 

 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである 

 箴言 22:4

 主を恐れるとは、天のお父様である神様に、自分の日々を明け渡す人のことです。 その結果は、富と誉といのちだと約束されているのです。 

 しかし問題は、頭ではわかるのですが、なかなか神様に自分の人生を明け渡せないでいる、という点にあります。

 原因は 疑う心と恐れです。 

神に自分を明け渡してしまったら、なにかとんでもないことになるぞ。

そんな恐れと疑いの心ではないでしょうか。

それはアダムとエバ以来の万人の心にあるものだと思います。

f:id:seishonoarukurashi:20200614202215j:plain

アダムとエバは、サタンが「神のようになれる」と言うのを聞いて、神を疑って恐れて逃げ隠れするようになりました。その結果は 自分との不和、人との不和、神との不和です。

 5:23どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。Ⅰテサロニケ5:23 

 聖書によると人は、霊・魂・体の三重構造だとあるので、まず霊が恵まれると、全体が恵まれてくるのです。

 そして、主イエスは、2,000年まえの十字架の贖いの御業によって、そのための問題の一切を解決してくださいました。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 コロサイ 2:13,14

 私たちを責め立てるあらゆる債務証書を取り除いて下さって、父なる神さまは、私たちをも、御子イエスと一緒に、子供として下さったのです。 

 聖書はこう言っています。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神詩篇 68:19

この天の神様が、私たち一人一人のことをこのように案じて下さっているのなら、どうでしょうか、ひとつひとつの肩の重荷を神様に負っていただいてはいかがでしょうか。具体的に、負担に感じる事どもを、そのひとつひとつを、祈りをもって、神様にお任せしてみてはいかがでしょうか。

神様に自分を明け渡していくときに、神様は私たち一人一人に、これまで体験したことのない新しい力を注いでくださいます。そして神の御国のために私たちを用いてくださるのです。 

f:id:seishonoarukurashi:20210805165158j:plain

共依存からの回復

さいころから育児放棄にあった女性がいました。愛されることを求めて彼女は小さいころから人一倍の努力家でした。成績優良、その後キャリアを積んで立派な人になれました。しかし最後までアルコール依存症者だった両親から愛されることはありませんでした。自分見たいな人間は人からじゃけんに扱われてちょうどいい。自己破壊的な思いから薬物にも手を出しました。そんな生き方に納得しようとさえしていました。

転機が訪れたのは教会に通い始めたときでした。

最初は、神に助けを求めるなんてプライドが許しませんでした。「たすけて」と言いたかった。でも言えない。人に対しても神に対しても正直に自分の心と向き合うことができなかったのです。

f:id:seishonoarukurashi:20200930152716j:plain

しかしやがて彼女の心は砕かれて、「助けて~」と叫ぶことができたのです。彼女は変えられました。自分は愛されていいのだということが分かりました。張りつめていたものは解けて、神の子としての「安心」を得ました。

しかしその後‥‥

でも、時々、古い馴染みの生き方に戻ってしまってこんがらがってくる。そんなときは立ち止まって、知らないうちに自分で生活をコントロールしようとし始めていたことに気づいて、再びいっさいを神様のご主権に返する。たとえ完全ではなくても、回復に向かって、毎日を希望をいただいて過ごしいるのだそうです。

私たちはどう生きるのか 

いかがでしょうか。 

自分の人生なんだからと言って、神さまの御手にお任せしていないところはないでしょうか。そんなほどほどのところでなんとなく過ごしているのではないでしょうか。

神様に明け渡せないでいるポイントはどこにあるのでしょうか。

自分の人生なんだから。そんな神様を疑う思いでしょうか。

考えてみましょう。そしてもしも神様に明け渡せていないウィークポイントが見つかったら、勇気を出して、わたしは~のことで以前から弱さを覚えています。どうぞお助け下さい。 

私の人生を私の心の王座にお座りくださって、あなたのご支配の中にお導き下さいと祈ってみましょう。

 

あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうにイザヤ書 48:17,18 

 

f:id:seishonoarukurashi:20201216122008j:plain

 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

 

*1:

14:7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 14:8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 14:9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 14:10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 14:11すなわち、
「主が言われる。わたしは生きている。
すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」
と書いてある。 14:12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。