聖書のある暮らし

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「なぜ神のために生きるのか」ローマ14:7-12  

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今日はご一緒に、「なぜ神のために生きるのか」ということをご一緒に考えてみましょう。 

 

 

 ローマ書14章7‐12*1

付け加えられている重要なある観点

先週は「人を生かす聖霊の愛」というタイトルで前回のところを見ました。 

使徒パウロは信仰の弱い人と強い人という言い方をしました。 

グレーゾーンという問題があり、聖書がはっきりと悪いとも良いとも言っていない事柄について、どうするのか?ということが扱われています。 

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枝葉末節という言葉がありますように、本質ではなく枝葉のことにこだわってしまうことがありあます。しかし大事なことは、はたして自分のようなものが簡単に人をジャッジしてもいいのか?ということでした。なぜなら主のみこころは、「しもべ」が立ち上がることだとあったからです。しもべとは自分を含めた私たちの身の回りの人たちを意味しています。それは一般的な私たちの考えとは遥かに違った考え方です。自分のようなものが人を裁いて、見下げて、人を放り投げてしまうようなことはする権利は決してないのだ、ということです。

 そして、今日のところはその続きですが、ある重要な観点付け加えられています。

11節にある「主を賛美する、あがめる、ほめたたえる」ということです。 

 

「主が言われる。わたしは生きている。
すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」

どうして、ここに主を賛美するということが出てくるのでしょうか。また、生きるにしても死ぬにしても主のために生きる、ともあります。

エス様を信仰する人たちが、なぜ、そのような生き方をする必要があるのでしょうか。

セレブレイトリカバリーのこと

セレブレイトリカバリーという生きづらさを乗り越えていく回復のためのプログラムがあります。これは飲酒などの問題に苦しむ人たちの回復のために用いられるものです。

そのなかに「回復のための8つの原則」というのがあります。

その第一が「自分の霊的な貧しさを知っている人は幸いです」です。 

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次のようにあります。

私は神ではないことを認めます。悪いことをしてしまう自分をコントロールする力がないこと、そして自分の人生が手に負えない状態にあることを認めます。 

                  回復の8原則 原則1 

あらゆる宗教、習慣、国や時代を超えて、すべての人に共通して必要な解決すべき問題が、この神との一致、和解です。 

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ジョンレノンは、その一生を終える間際に、キリスト教への回心を希望することを口にしていたといいます。しかしそうはならなかったのは、奥さんのオノヨーコのためだったと、ある方のブログで知りました。

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また、進化論のダーウィンも一生を終えようとするとき、かれは非常に落胆して後悔しつつ世を去ったといいます。彼の学説が独り歩きしてしまったことのためだったそうです。彼はいまわの際に主を受け入れたようです。 

多くの人が、自分の人生なんだから勝手に生きたっていいじゃないか、と言うのですが、実は死に直面するとき私たちは赤裸々です。そして、神との和解の大切さに気づくのです。 

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明日,出撃を控える空軍の兵士たちは、前夜に従軍牧師のところに来るそうです。主な相談内容は、自分の罪の問題だそうです。そして死んだら自分はどうなるのかという相談だそうです。なんと赤裸々でしょうか!人が、まず第一に解決すべき問題は、神との平和なのです。神様との和解ですね。 

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エス様は、私たちと神との和解ための贖いと償いの代価となられるために、この世に来られ、人となられ、贖いの血を流してくださいました。 

人生の一番の問題=利己主義

自分勝手でいい。好きなように生きればいい。でもその最後は、たいてい、孤独と分かり合えない寂しさです。家は崩れて、暖かさはなくなり、わびしい最後を迎えるだけです。その理由は、自分が神であろうとして生きること、そして生きてきたことです。

神は愛です

聖書の神様は、そのような寂しくて侘しい時間を過ごすことは願ってはおられません。

神は唯一です。

そして、人と神との和解の仲介者も、人となられた神イエスキリストだけです。

ですから信じる者にとって毎日は、残りの人生を好き勝手なことのために費やすのではなく、人との和解、自分との和解、そして神との和解という回復の行程を御国を目指して、たとえゆっくりとでも進んでいく成長させていただきつつ、進んでいく毎日となるのです。 

 この神さまは私たちの歩みに心配って下さっている

6節。食べる人は主のために食べるし、食べない人も主のために、栄光のために食べない生き方を選んでいる。生きるのも死ぬのも主のために。 

 なぜでしょうか。 

なぜなら、この神さまは、日々私たちを心配して見てくださっているからです。 

日々、私たちのことを案じてくださっているからです。 

 ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神詩篇 68:19 

あなたの右の手は私をささえ、
あなたの謙遜は、私を大きくされます詩篇18:35 

 天と地を造られた方が、私たちを支えてくださる、と言っているのです。 

ですから、私たちは、この地上での歩みにおいてもそうですが、天国へ行ったのちも、永遠に、11節にあるように、主をほめたたえるように招かれているのです。 

わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

この「言い開きをする」というギリシャ語は、釈明という意味もあるとは思いますが、前後からの理解では、直訳すると「神の前に言う」となり、「申し開き」とは、神への賛美を捧げるという意味にもなる個所です。

エス様を礼拝するときに、私たちは神との調和、人との調和、自分との調和にますます回復していくようになって、生き生きとして歩みへと導かれていくようになります。

  

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

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*1:14:7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 14:8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 14:9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 14:10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 14:11すなわち、

「主が言われる。わたしは生きている。
すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」

と書いてある。 14:12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。