聖書のある暮らし

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「世の終わりの時代のライフスタイル」ローマ13:11‐14  

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 今日の個所は、世の終わりの時代にどうあるべきかという、いわば生き方について書かれた個所です。「世の終わりの時代のライフスタイル」というタイトルを付けました。 

ご一緒にみ言葉を見ていきましょう。 

 ローマ13:11‐14 *1

 

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Jan VašekによるPixabayからの画像

今日という大切な一日

 聖書には時を表すことが二つあります。 

一つは、クロノスで、もう一つはカイロスです。 

クロノスは、今何時何分という時刻を表すことばです。 

それに対して、カイロスは、ある特別な時刻を表すことばで、たとえば何月何日に大事な仕事があるとか試験があるとか、あとすこしで、夜が明ける、など特別なことが待つ時刻のことです。 

 ここで使われている言葉は、カイロスです。 

「あなた方はどのようなときか知っている」と、また眠りから覚める時刻ともあります。今日という日を、もしや携挙があるかもしれない、特別な日として歩むようにとの勧めの個所です。 

 そして、では、そのために、今日一日をどのように過ごせばいいのかということについて書かれてある個所といえます。 

憂さ晴らしっていうけど

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。12節。

 どういうことでしょうか。 

 13節に‥‥。 

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StockSnapによるPixabayからの画像

まず、遊興、酩酊とあります。 

お酒を飲んだり、騒いだりすること。多くの人がたの楽しみですね。 

今はコロナなので、それができなくて多くの人が残念に感じています。 

次に、淫乱、好色です。 

資産家で紀州ドンファンと呼ばれた方がいましたが、その方は、そういう楽しみのために生きていました。 

それから、争い、妬みの生活。 

誰かをねたんだり、恨むのは、自分が価値のないものであるかのように扱われたときや、人と比べてそう感じたときにわいてくる感情です 

恨むのは自分が拒絶されたときに起こる感情ですね。 

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憂さ晴らしってよく言いますが、その瞬間は自由になれたかのようで、楽しい気分にはなれても、しばらくすると麻薬のように、または楽になりたくて、おいしい食べ物のように、人をけなしたり、ここに書かれてあるようなことをしてみるのですが、「罪を犯すものは罪の奴隷」と聖書がいうように、じつは、それでは憎いだれかであったり、何かのいやな出来事の記憶の下に自分をいつまでも閉じ込めておくような生き方に陥るだけ、本当の解決にはなっていないのです。健康にも良くないし、早く死ぬかもしれません。 

痛みから逃れるために、ある種の衝動的な習慣にとらわれてしまったり、誰かにつらく当たったり、怒りをぶつけたり、人を批判し、裁くことで痛みを隠そうとすることもあります。リックウォレン。 

 しかし、13節の後半から14節には主イエスキリストを着なさいとあります。 

不快な感情からの自由

一般的に憂さ晴らしと言いつつ、逆に自分を滅ぼしてしまうような生き方から私たちを本当に自由にしてくれるのは、イエスキリストを着ていくことだというのです 

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エス様の十字架の上で流してくださった血潮は、私たちの根源的な部分にある、恨み心や、おそれといった感情から私たちを洗い清めてくださるのです。なぜならキリストは十字架の上で古今東西のすべての私たちのうちに渦巻く恨みや憎しみや恐れを背負って、十字架上で死なれ、信じるすべてのひとを恨みつらみから贖ってくださったからです。

さいころから、なにかの否定的なそういった感情に支配されてコントロールされ続けてきて、その結果内面に籠もり溜めてきた、恨みや、おそれの感情から、イエスキリストの十字架の贖いによって、信じる人は自由にされるのです。キリストが十字架の上で流された血は、それほど尊いのです。 

礼拝=いのちの分与

 14節。 

肉の欲のために心を用いてはいけないとありますね。 

用いる=備えする=準備という意味でもあって、いままでは、心の痛みを覆い隠そうとして、憂さ晴らしに励んできたけど、結局は酩酊や不健全な生活に堕し、恨みやつらみの常習犯になってしまっている。主は、「罪を犯すものは罪の奴隷」だとおっしゃったのです。しかし、今度からは、主を礼拝することに心を用いる。用意すること。 

主を賛美する。異言で祈る=霊のことば=いのちのことば。人を生かすことば。命を与える祈りです。どうぞもしできれば、異言でお祈りください。 

 旧約を見ると、カナンの地の相続の時、レビ人だけは、割り当ての地がなかった。 

しかし、繰り返し語られていることは、主が約束の地であるということだった。 

ただし、レビの部族には、モーセはなんの嗣業をも与えなかった。イスラエルの神、主がその嗣業だからである。旧約聖書ヨシュア13:33

むかし、「主はわが嗣業(しぎょう)」という言葉がありました。 

相続する財産という意味ではないでしょうか。 

主こそは私たちの永遠の財産、資産であられるのです。 

主は私たちを愛、喜び、平安、感謝、勇気、希望で満たしてくださいます。 

どんな知識や財に勝るものです。 

 

 心を備えて、主を礼拝することを心に決めましょう。 

遊興、酩酊とありましたが、そういう一時的なものによって、心を慰めたり、満たそうとしても、私たちを本当に自由にすることはできません。 

私たちを本当に自由にすることができるのは、イエス様ただおひとりです。 

主をあがめて礼拝しましょう。 

ハレルヤ! 

 適用

 もし、今日誰かを恨んでいるなら、また何かを恐れているのなら、どうぞ、十字架の主におっしゃってください。「主の血で恨み恐れから私を清めてください。 

 

 

*1:13:11なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。 13:12夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。 13:13そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 13:14あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。