「愛の律法の成就」 ローマ13:8‐10
前回のローマ13:1‐7では、社会的な権威の問題が扱われていました。
たとえば上司と部下、先生と生徒という世の中での上下関係についてです。
今日のところはその続きで、今度は横との関係についてです。
ローマ13:8‐10 *1
それはちょうど、 モーセの十戒の前半が神との関係で、後半は人間関係について書かれているようにです。
借りがあってはならない
8節では、借りがあってはならないとあります。9節「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」。私たちは、時々他の人に迷惑をかけてしまうものです。
8節に「他の人を愛する人は律法を完全に守っている」とありますが、具体的には9節の「姦淫するな、盗むな」などの戒めがあって、言い換えれば、愛にゆえに他の人に迷惑をかけないようにという意味ですね。
律法の目的
律法の存在目的は、そのように、愛にあって歩むためのガイドラインなのです。
それはまた、律法を守って、良い子になって「どう?見て見て。」ということでもありません。 そういう生き方は、結局は自分が神であろうとする生き方で、上手くいきません。
むしろその逆で、神のお力で、人は罪を犯さないように守られていくということを認めることが大切だと思います。
人との関わりのなかで
悪しき者は物を借りて返すことをしない。詩篇 37:21
愛の反対は利己的です。それは借りがあっても気にしません。返す気もありません。悪いとも考えていないし、相手が悪いくらいにしか考えないことを言います。人からの好意に触れても、当然と考える。王さまか、神様のような積りでいます。
なんだあいつ!と思いますが、意外とこれが自分の姿だったりするのです。
8節の「他の人」とは教会の人のことではなく、7節からのお話の続きで、世の中の人たちのことを言っています。
クリスチャンの立場
この地上でしかできないことが三つあります。
一つは、罪を犯すことです。二つ目は、それゆえに、イエス様の十字架の血によって赦しを得ることです。そして三つ目のことは、その罪の赦しの福音を延べ伝えることができることです。
私たちが悪いことをしてしまうのは不快な感情を抱くことによります。恨みの感情、おそれの感情、罪責感に後悔です。しかしこれらすべての不快な感情は、イエス様の十字架の血によって潔めていただくことができるのです。神の御子イエス様だけが十字架の上ですべての人のための償いを果たして下さったからです。
利己的な感情が渦巻いているこの世界で、イエスキリスト様の十字架を癒しと回復の拠り所として旅することができることは幸いです。
ではどのように生きていくのか
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 マルコ 12:30,31。
ここに「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。しかし、ただ睨(にら)まれたとか、無視されたくらいのことで、すぐに私たちは、自分が除外されているとか、自分は無価値な人間だとかひがみやすいところがあります。
しかし、よく考えてみれば、そういうリアクションは常に自分が中心にあってのことなのです。相手のことば遣いや振る舞いだけで判断しがちですが、それだけだと「自分を愛するように自分を愛する」ことだけで終わってしまいます。でも聖書は自分を愛するように相手を‥‥なので、自分の考え方を持ちつつも、相手の立場のことを考えてみます。
「今、この人に自分が感じているネガティブな感情は、自分が抱いている感情だ。だが、この人がこんなふうに振舞ったのは、そう言ったのはどうしてだったのだろう?主よ、私はこの人にどう反応すればいいのですか?」
こんな風に祈ってみるとします。きっと、自分がカッカきている感情が自分だけのことで、思うほどその人には悪感情はないのだろうということが見えてくることがあります。あるいは、思いもよらないウィット(機転、知恵)がわいてきて、自分の口をついてでてくることがあります。ねぎらいだったり、譲歩だったりします。
そして、自分が扱うべき分は自分の感情だけであって、相手のことまでは任せられていなかったことに気づかされます。
イエスキリスト様は神様です。このお方だけが、すべての人の思いを御存知であるし、お導きできるお方でありますので、小さな祈りでもいいので、接する人たちのために祈りましょう。
この地上でしかできないこと
それは主の十字架によって罪が赦されることです。病が癒されて回復していくことです。そして罪に赦しと癒しの福音を宣べ伝えていけることです。
救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。
*1:互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。