聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「人を生かす聖霊の愛」 ローマ14:1‐4 

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 ローマ14:1‐4*1

法主

今回の個所では、律法主義に気をつけなさいと書かれてあります。

その理由は、愛を失うからです。 

そして愛を失うとき、信仰生活に力を欠くようになるからです。

パウロは、そのへんのところを具体的に以下、書き記していますが、まず「信仰の弱い人」という言い方をしています。 

信仰の弱い人とは、些細なことで、すぐに罪を犯したのではないかと不安に感じやすい信仰者のことといえるかもしれません。 

侮らない、裁かない

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当時、市場へ買い物に行くと偶像に祭られたお肉が売られていたそうで、果たしてそういった肉をキリスト者は食べてもいいのか?となりました。 

信仰の弱い人たちは、そんな肉には悪霊がついているとか、汚れるとか言って食べなかったのではないでしょうか。しかし、別のグループ、すなわち対する信仰の強い人たちは、「主はすべてのものは聖いと」主はおっしゃったでないか。と言って食べる派もいた。そして、それは教会内で派閥のような緊張関係を作るようになっていったのです。 

食べる人は、食べない人たちを見て、「なにやってるんだ、堅苦しい」といって侮ってはいけないし‥‥、逆に、食べない人たちは、食べるクリスチャンを見て、「あ!罪を犯している」といって裁いてはいけないのだというのです。 

お酒は?茶髪は?ファッションは?

聖書を見る限りでは、明確に教えがない事柄というものがあります。

罪だとも罪ではないとも何と言ってないいわばグレーゾーンの事柄がというものがあります。 

たとえば、飲酒の問題があります。ある教派ではお酒は飲むが、あるグループではタブーです。

ファッションの問題だとか、いろいろありますね。

30年前、茶髪の人は、夜の飲食街の仕事をしている人だという固定概念がありました。でもいまでは、ごく普通のことです。男の子がピアスをするのはどうなのか。聖書に、率直にそのものについての言及個所というのはありません。50年前、教会でギターを弾くのは?というのがありました。ちょっとおかしな人みたいな目で見る人もいたくらいです。

しかし、今日の個所では「主はその人を受け入れてくださっている」(3)とあるのです。 

このことは、教会のあり方についても言えることだと思います。たとえば、ある教会では会衆派といって、役員の選出は選挙を重んじるグループがある一方、牧師が一切の選任の権限を持つグループも存在しています。監督派といいます。神様は、どちらのグループをも重んじてくださっているように見受けられます。

神は彼を受けいれて下さったのであるから。 (3)

主はその人を受け入れてくださったのだからf:id:seishonoarukurashi:20210721122417p:plain

先日、ハワイのカルバリーチャペルのカネオヘの教会の動画をユーチューブで見ました。厳格な仏教徒神社の関係の家柄の日本人の方が、その教会の牧師さんとの対話形式で、対談しながら、どのようにして信仰を持つに至ったかということについてのお証し(体験談)をされていました。なんとこの日本人の方はインータネットの動画を通してイエス様を信じたのだそうです!ファラグ先生というかたの(右)の福音についてのお話があまりにも単純で分かりやすかったからだといいます。長い由緒ある伝統のお寺と神社のこの方のお母さんもイエス様を信じたのだそうです。やはりその理由も、簡単だったからだと言うのです。 

その方は動画で言っていましたが、それ以外のいろいろな動画を見たが、どれもわかりにくくて、しかも救われるためには洗礼を受ける必要もある教えられていたとのこと。もちろん、「信じてバプテスマを受ける人は救われる」ですから、洗礼はないがしろにはできませんが、たしかにそれが戒律のようになっていくとき、救われようとする人の妨げになってしまうことがあり得ると思います。

キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。第一コリント 1:17

私たちの教会にもYさんという方が以前来られて、イエス様を受け入れるお祈りをされた方がおられました。その後も、その方は、私たちの教会員の方を通して、自宅でお祈りを一緒にされたりしています。Yさんはすでに主からの 救いをいただいていると信じるのです。

先日も祈祷会にリモートで参加されている方が、一緒に主を心に迎え入れるお祈りをされました。Sさんは救いをいただいたことを信じて感謝するものです。 

わたしは、教会が勝手に作り上げてきた伝統や形式のようなものを超えて、この終末の時代に福音は宣べ伝えられていくのだと思いました。 

「神がその人を受け入れてくださったからです」。どうかそのことを忘れないようにしましょう。 

 

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他人は他人、わたしはわたし(守備範囲)

つぎに、最後の4節のところですが、他人のしもべを裁くな、とあります。 

聖書が書かれた当時、奴隷、しもべと呼ばれる人たちがいました。肉体労働だけではなく、家庭教師だったり、医師の奴隷もいたそうです。しかし問題は、自分のところのしもべではなく、他の家のしもべのことで、「あれは困ったものだ。なんだあれ?なんとかなんないのか?」と言ってはいけないというのです。

どうしてかというと、「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです」とあるからです。

主には彼を立たせることができる、とあるのです。 

それは、私たちの関与することではないのですね。 

 

職場や、家庭や、ご近所のことだとか、だれかの車の運転の仕方だとか、教会の中だとか、いろいろな人間関係の中で、私たちはどうでしょうか。以外と余計な口出しをしてしまいそうなことはないでしょうか。少なくても心の中ではどうでしょうか。

主の御心は、その人を建て上げることだというのです。 

もし、主の御心が、そうであるなら、私などがどうして主のなさろうとしていることのお邪魔をしていいはずがあるだろうかとなるのです。

その人が立つか立たないかは主がなさることだというのです。 

どうして不完全な私のようなものが、裁判官みたいに、高いところから越権行為を働くことができるだろうか、となってしまうのです。

先週も、触れましたが、もし自分の心に恨みや恐れがあるなら、それらはイエスの血によって潔めていただくのです。 

消えたおそれと恨みの感情

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先日、運転していたときのこと、バックしようとしたとき、右折する車が来ました。その車を運転していた人が、道をふさがれたと思ったのか、なにかにらんでいたように感じました。勝手な思い過ごしだったのかもしれませんが、なにか心に引っかかるものがそのあともあって、こう祈ってみました。「心にある恐れ恨みのような感情からイエスの血によって潔めてください」。すると、そのひっかかりの感情が消えたことが感じました。

 「なんだあいつ」と思えるような人がいても、私たちはその人が滅びてしまうようなことをしてはいけないのです。 

 もし愛を失うなら、信仰生活に潤いが失われます。愛は潤滑油でもあります。 

平安、喜びや、希望はすべては愛に基づいているのですね。 

 エスの血によって否定的な感情から清めてくださって、聖霊さまの愛の中に私を導いてください、と祈りましょう。 

 

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 救いのABC とても分かりやすい信仰の持ち方です。ご覧ください。

 

 

 

*1:14:1信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。 14:2ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。 14:3食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。 14:4他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。