聖書のある暮らし

聖書のある毎日のおすすめです

「今日一日を生きる」

ローマ書7章7節~14節*1

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みなさんこんにちは。

庭の家チャペルの牧師 伊藤と申します。

  今回は「今日一日を(生きる)」というテーマで、聖書に目を留めていきましょう。とくに今日の箇所では律法の役割と私たちの毎日の歩みの関係についてご一緒に学びたいと思います。

 

 今日の箇所での結論は、12節の、律法は聖なるもの、良いものだということです。

 前回は、私たちがイエス様にあって律法から解放されたということについてでした。パウロの生きていた当時、信者が信仰によって律法から解放されたのなら、もう律法は要らないのではないかという律法不要論、律法廃棄論があって、それが今日のこの箇所の背景になっていたようです。

 それに対してパウロの意見は「絶対にそんなことはありません」というものです。

律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 7節。 

 私たちの内にある自分でもよくないと知りつつも渇望する思い。聖書ではそれを罪と呼んでいますが、自分の内にそんな感情や願望があるということに気づかせてくれるのが聖書がいう「律法」なのだというのです。

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たとえば、むさぼりということが挙げられています。むさぼりは、嫉妬の親戚です。

 

  むさぼりという言葉のうちに、パウロは全律法を含めた。

                                                                    アウグスティヌス

もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 7:8しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。    ローマ7:7~8. 

 機会について

ここに「機会」とありますが、かの榊原氏の説明によると軍隊用語だそうで、(ローマ人への手紙講解3)敵の陣地を意味するそうです。「敵地をとる」、または、家を建てるために土地を確保するとか~そういう私たちが生きていくうえでの広がりや、人とのつながりがあって、そこからは良いものを得たり、失ったりだとか、いろんなことがあります。

なので、考えてみると「機会」というのは、生きて行く上でとても大切なことですね。

そして、やってくる「好機をとらえる」ために、律法というものがあるとも言えます。なぜなら律法には宇宙の精神ともいうべき神様のみ心があって、「むさぼり」が起きるとき、その好機が失われがちになるからです。

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旧約聖書では蛇がアダムとイブたちの「機会」を捉えて、むさぼらせて~善悪の知る木の実~みるからに「好ましい」そこにはいろいろな動機、事情もあったのですが~「貪った」わけです。「このましい」という事は、この場合、自分にはないものについての魅惑、眩惑です。それが嫉妬で貪りですね。

 「少年時代」

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7:9わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 7:10わたしは死んだ。

 井上陽水さんの「少年時代」という歌は、少年のころの楽しい思い出を歌ったものです。幼かったころの、これからどんな良いことが自分を待っているんだろうという期待感があって。良い時期ですね。

でも大人になっていくにつれて、それまで知らなかったどろどろとしたようなものが自分の内側からわいてくる。大きくなるにつれて、良心の責め苦を感じだす。

 でもパウロが説いているのは、実は、それはただ眠っていただけ、自覚していなかっただけのことで、実は、罪という醜いものが初めから私たちの中にはあったのだと言っているのです。

だからこそ、律法は聖なるもの、霊的なものだというのです。

 

 アダムも善悪を知る木のことは知っていた。でも、そのことについては日頃余り考えることもしなかった。しかし、時が来て、蛇がその機会を捕えて、一滴の滴(しずく)の滴り<ちょっとくどい言い回し(笑)>のような好奇心、欲望が芽生えた時、それまで少年だったときまでは、なにか守られていたかのようなものが破られて、それまであった自分は大丈夫だという、安心感のようなものがぐらつきだしたんですね。

やがて、抵抗することができない「貪る」思いがあることに気づくわけです。

ねたみとむさぼり

自分が願っていたのに持てないでいるものを誰かが手にして喜んでいるのを見るとき、むくむくと黒いものがわいてくる。ヘンなんだい!あいつってなるわけです。喜んでいる人を見て内心穏やかでいられないんですね。

なんて自分は醜い心をしているんだろう、と気づかされる。それが律法が聖なるもので、霊的なものであると書かれている理由なんですね。

なので、律法は悪いものなのではなく、心が悪いのです。

律法の目的 

では律法のある目的はそれだけなんでしょうか。

私たちの醜(みにく)さを示すだけなのでしょうか。

Ⅰ.律法は、私たちがそれを守ってなんぼ点とか、守って救われるというものではありません。そのような神さまとの関係からはクリスチャン(信仰者)はイエスキリストの十字架によって解かれているからです。 

Ⅱ.「罪が戒めによって機会を捕えて」とあるように、私たちがまだ子供だった頃には気づけないでいた~宗教改革者だったカルヴァンはそれを「愚鈍さ」「得意になっていた」とさえ表現しています。自分が貪る思いに抵抗することが出来ないものなのだ、ということに気づき、そのことを認めるためです。

聖くなれたかどうかではありません。気付かされることだったのですね。

 Ⅲ.自分の無力さわかる時、そこにあるのが救いです。

イヤな自分の癖や悪意に対して我力では間に合わない自分の無力さが分かる時、その人は救われます。

Ⅳ.そして、そのあと救われ続けていく歩みがあります。

 

原風景~希望のある少年時代にも似た期待感をもって毎日を過ごすには

アダムは善悪の木の実を前にして、その一滴の誘惑の滴(しずく)に対して、抵抗することが出来ない弱さ、無力さを抱えていたと同様に、あらがえないほどの嗜癖や脅迫感や、悪いと自分でも知りつつ避けられない渇望に捕らえられそうなとき、その都度、その事実を正直に神の前にも人の前にも認めて、頭を垂れて祈るなら、あなたや私にも、宇宙の精神ともいうべき神の「律法」の光に照らされて、その結果、希望のある期待のある毎日がもう一度、求めるすべての人に回復されていきます。 

 

二つの祈り

Ⅰ.もしむさぼりがわいてくるのを感じた時~自分の無力さを認めて祈る。

Ⅱ.自分にはできない、しかし神にはできる、と言い表し祈る。

 

例えて言うと、日々、「善悪を知る木」を目の前にして、私たちは、この選択をしなければならないのです。

 

今日一日を 

明日のことは私たちにはわかりません。

私たちはお互いが完全であることを求めやすいです。

完全でなければ、受け入れがたいのです。

そして、自分の内に常に「完全」があるのか、安全なのか?問い続けます。

そのことで神経質になります。でも、それはしてはいけないことです。律法を前にして、それはだれにも出来ないことです。ただ、先の祈りのように、私たちに出来ることは、昨日のことを悔やまない。

明日のことも心配しない。ただ今日一日を自分の愚かさを認めて、祈りつつ生活することなのです。今日一日、肩の力を抜いて主にあっていきましょう。

 

お祈りします

天の父なる神さま。

わたしはともすれば、自分の内に完全なものを、安心を探します。

でもそれは見つかりません。

エスキリスト様は神様です。

エス様にお頼りいたします。

愚かな私をお助け下さい。

 このお祈りをイエス様の御名によって アーメン。。

 

*1:7:7それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 7:8しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 7:9わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 7:10わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 7:11なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 7:12このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 7:13では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 7:14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。口語訳